秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

地域の復権

かつて社会学者と語り合ったことがある。
 
女子高生が体を売るという事案が問題になっていた頃だ。そこで互いに納得し合ったのは、簡単にいうと、身体に、「自分のもの」という実感が持てていないのではないか…ということだった。簡単にいえば、自分の身体という身体感覚がない。

たとえば、古い人はその行為に対して、親が悲しむでしょう?と説諭する。あるいは、傷つくのは自分よ!と諭す。
 
だが、そうした言葉に、一線を越えてしまった彼女たちは、意味を感じない。こんなもん、どう使おうと私の勝手でしょう!と反発する。
 
ここで重要なのは、「こんなもん」と自分の身体を対象化して、自分には帰属しない、なにか別のものととらえていることだ。
 
諭した古い人の頭にあるのは、この身体は、親からもらったもの。育ててくれた親に帰属するもの。だから、この身体は親とあなたのものという意識がある。
 
だから、親を悲しませるとか、自分が傷つくという理屈になる。だが、彼女たちには、自分の身体の帰属が見えない。帰属意識がない。ゆえに、これをどう使おうとだれに遠慮する必要があるのかとなる。

もちろん。その一線を越えるまでには、躊躇や迷い、場合によって拒絶もあったかもしれない。しかし、一線を越えてしまうと、自分の身体のよりどころがないことを一層強く感じてしまう。金をもらい、ものとして消費されるからだ。
 
その瞬間から、躊躇や迷い、拒絶といった精神的な倫理の部分は、身体を物とする即物的な価値に置換されてしまう。つまり、罪悪感は消える。

それどころか、この程度のことで手にすることのなかったお金が手に入る。ヘタなバイトをやるより手軽でいいと日常化していく。罪悪感は日常に紛れさせることでより希薄になるからだ。

そのとき、私は宮台氏と語りながら思った。身体の帰属が失われているのは、家庭のあり方の問題だが、じつは、地域の崩壊と無縁ではない。あるいは、地域的なる人とのつながりの喪失と無縁ではない。
 
身体が依拠する場所の喪失が、都市的なるものの増大で当時、進んでいた。同時に、バブルとそれ以後の拝金主義がこの国の日常になっていた。都市的な生活空間の中では、物、金が優先する。それがないと都市的ではいられないからだ。

結果、家庭とそれを取り囲む地域でつくられる身体性、たとえば、近所の神社のお祭りでの踊りや地域の伝統芸といった身体感覚を共有できるものが失われた。
 
家庭の中で食事を共にし、場合によっては親戚のだれかや近所のだれかが来訪したり、こちらから訪ねたりしながら交わす言葉、それに付随する所作…そうしたものがない。
 
あるいは、墓がない。仏壇がない。自分の身体が親、さらには、祖父母、またその曾祖父母に帰属している姿が見えない。年中行事がない。正月を家や親戚と過ごさない。節分、ひな祭り、端午の節句、盆踊り…あるいは、死にゆく人の姿を見ない。
 
身体性を支え、かつ、身体感覚となるそれらの重要なファクターが失われている。さらに、そこに親との精神的距離、確執が重なると彼女たちの身体を彼女たちの中でとどめるものがなくなっていく。

これはひとつの例だが、ことほどさように、家庭、地域の軸には、なにかがしかその身体の帰属となる、地域の風習や慣習、祭事といったものがあるなしで、大きく違う。
 
歴史的にみても、地域が強かった時代というのは、それらが逆に都市に流入し、都市を席巻していた。それは、やはり、都市に身体性を形成するものが希薄だったからだ。
 
身体性の回復…言葉は難しいが、いいかえれば、地方・地域ならではの日常。それを回復しない限り、地域の強い時代は復権できない。