秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

下駄は預けない

地域社会の問題、地域住民の生活課題…。多くの人が、大都市と地方では違う。そう考えているだろう。

だが、そもそも、大都市や都市部と地方を分けて考えること自体、自らの地域の問題や課題をしっかりと見ているとは言えない。

確かに、都市には都市の課題、地方には地方の課題はある。

だが、産婦人科医・小児科医の不足にせよ、保育園待機児童の問題にしろ、次世代育成の地域力の不足、不登校、ひきこもり、家庭内暴力、DV、ストーカー、いじめ、高齢者の孤立死、介護、福祉といった問題は、都市、地方にかかわらず共通の課題としてそこにある。

そこに、都市だから、地方だからといった差異はない。

都市と地方を分けて考えたがるのは、都市にも地方にも共に経済への依存が強すぎるからだ。経済だけを地域的な価値の拠り所とするからだ。

都市がいかに地方に比べて経済的に豊かであろうが、地方からいただく資源がなければ、都市は成立しない。地方がいかに都市に比べて経済的に劣っていようが、地方であることで得られる都市とはちがう富が地方にはある。

そして、都市にせよ、地方にせよ、経済偏重の地域のとらえ方は、金させあれば、いろいろな地域の課題は解決される…されないまでも改善される…。そう信じているからだ。

では、現実にそうなっただろうか。

おかしなことだ。高度成長から消費社会、成熟社会と経済だけを拠り所とした国民生活は、決して、本当の意味で人々を幸せにはしていない。交通事故死もさることながら、先進国トップの自死者を出し、高齢者の孤立死はいまでは珍しいことでもなくなった。

基地を押し付けられた沖縄は、原発を受け入れ、原発事故と遭遇した福島は、経済的に豊かになり、自立し、都市のようになれただろうか。

自分は幸せだといえる人は、もちろんたくさんいるだろう。だが、自分が生活する地域を見渡せば、そうではない人がいることに気づけるはずだ。気づいてもいるはずだ。

それは、流行の自己責任として捨て去るのだろうか。では、そいつのせいだと人を切り捨てる社会は、本当に幸せな社会といえるのだろうか。

この問いに応えていくためには、だれかに自分たちの生活の質を預けるのではなく、自分たちの選択をなにかの依存で片付けるのではなく、自らが質を変え、高め、選択にかかわることしかない。

自分たちの地域のことは、行政への依存、政治家への依存、力への依存ではなく、自分たち自身の頭脳と知恵とからだを使って創造していく。

そこに、だれも落ちこぼれや切り捨てをつくらない地域が生まれるのではないだろうか。

そんなことは理想だと笑う人もいるだろう。できやしない。現実はそんな生易しいものではない。介護や福祉も最後は金じゃないか。そういう人は腐るほどいるだろう。

だが、笑う前に、一度でも本気でそれに挑戦したことはあるのか。生易しいものではない現実に傷を負っても取り組んだことはあるのか。金にしか解決がないという発想の乏しさを恥ずかしいとは思わないのか。金という前に、金に頼られずやれる方法を考え、行動したことはあるのか。

だれにも下駄を預けず、自ら社会に参加する。それは、きっとこの国、この国の地方で一番難しいことなのかもしれない。しかし、それをやった人がいたから、私たちの社会は、いろいろは不具合はあっても、ここまで進んで来られたのだと私は思う。

今日は、統一地方選挙後半戦の告示日。昨年末の衆議院議員選挙から先だっての前半戦でも史上最低の投票率だった。立候補者がおらず、無投票で決まる地方議員も少なくない。

そんな中で、このようなことを語るのは虚しいことかもしれない。だが、だれかに下駄を預けてしまう一票ではなく、共に地域を考え、つくりあげるための一票を投じてもらいたい。それも、地域のささやかな課題から自らも取り組むつもりで。

私は、下駄を預けるのではなく、横尾俊成くんと一緒に港区から学び、考え、そして、港区も福島から学び、考え、共に歩みたい。