秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

記念日とぼくらの生活

記念日。大人になるほどにそれは増えていく。歴史が重なるほどに、それは増えていく。

きみが生まれた日がそうであるように、きみの親や兄弟姉妹がそうであるように、ぼくらは誕生日という記念日に始まり、そして命日という記念日で終わっていく…。

人の一生も、歴史も、ある意味、記念日をつくることが宿命といえるほど、ぼくらは、記憶にあるもの、ないもの、すべてを含めて、いま、ここに生きるという生の中に、多くの記念日を生きているのさ。

だけど、ぼくらは、そのひとつひとつの、自分の生にかかわる記念日を、だれかに渡された記念日の重さや尊さをどれくらい知っているのだろう。

ごくありふれた日常のある日が記念日となった意味やそこにある明日への伝言、ぼくらへの遺言をどれくらい確かに、ぼくらは受け取っているのだろう。

ただ、記念日を行事としてだけ、記憶の回想としてだけ、陳腐な懐古や歪曲された手前勝手な記憶として、1年に1回めぐるある日とだけしか考えず、じつは、ぼくらのありふれた日常そのものを支えている軸にそれがあることを考えようとも、気づこうともしない。

記念日を無駄にしないために、自ら歩まなくてはいけない道や同じ記念日をつくらないために、努めなければいけない日々の努力や心の糾しを忘れてしまっている。

今日、71年目の敗戦記念日。記念日は、節目といわれる〇○年といったその年よりも、節目に深く実感した思いを行動に移す、その次の1年目がとても大事なんだとぼくは思っている。その先の10年、30年を決めていくからさ。

身勝手な歴史解釈と排他主義と身勝手な仮想敵づくりばかりに奔走し、こぶしとポケットに小石を握っていないと不安だというこの国で、大事な1年目をマスコミはオリンピック一色となり、深い振り返りと深い反省もない。

陛下の年中行事の戦没者慰霊のお言葉が、一環して記念日の思いを言動でも、行動でも示されていることをぼくらはどう受け止めているのだろう。

記念日を記念日にしない。埋もれさせない。記念日を都合のいい政治利用や常套語句、美辞麗句の言動の一致しない詭弁の場にしない。させない。

その力も、きみたちが記念日を本当に自分の日々の生活と思いとして、本当に生きているのかどうかにかかってるんだよ。