秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

道理と無理

ぼくがよく使う言葉はいろいろあるけれど、道理っていうのもそのひとつ。ぼくの考え方や物のとらえ方、見方を知っているきみなら、わかるよね。

ぼくがよく使う言葉は、いまの世の中じゃ、忘れてらているか、捨てられているか、使われていても都合のいいように歪曲されたり、矮小化されているものさ。

だから、ぼくは執拗に、そんな忘れられ、歪められてしまった言葉とその言葉が持つふるまい、ふるまいの基本にある、消えていく日本人の佇まい、精神文化を取り戻したくて使っているのさ。ぼくが演劇という身体性=ふるまいに関心があり、演劇を創作の出発点にしているのにも、そんな理由があるんだ。

そう。ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」やアーネスト・サトウの「菊と刀」、新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心「東洋の覚醒」、三島由紀夫「文化防衛論」にあるみたいにね。そこにはすべて、文化がつくる身体論が含まれているからね。

道理が通らない。それは、いつの時代にもあったことだし、これからも人の世のならない、常かもしれない。治世者や権力者の都合でいくらでもひん曲げられてきたのが道理だからね。既得権や慣例、慣習をよしとする人々の身勝手に、道理が歪曲され、ひん曲げられたからね。

だけど、これほど道理の通らないことがまかり通る時代は、いままでになったんじゃないだろうか。ぼくはそう実感しているのさ。

道理の反義語をきみは知っているかい? 

道理が通ってないのに、通っているような詭弁を使う、ゴマかしや言い訳、取り繕いをする。道理ともいえないものを強引に押し通すのは、道理に反するぞという声をなぎ倒し、法や道徳、倫理や規範、場合によっては法すらもなぎ倒す。それは結果的に、人々の純粋さ、誠意、真心、思いまでもねじ伏せる。

つまり、無理を押し通すことを道理にしようとする。そう。道理の反義語は、無理。

どうだろう。いまの世の中、どこを向いても、この「無理」が、まるで「道理」の顔をして、厚顔無恥に、我が物顔で肩で風切って、歩いてやしないかい。

首相の国会答弁や閣僚、都知事の発言は、まるでこの無理の連発だ。どう考えても道理のとおらない答弁ばかり。だが、首相を始め、現政権、与党の国会議員には、通らなくても、無理を承知で、それを道理としようとしか思っていない。

なんでも「日本会議」とか、「桜の会」とかいって、日本を取り戻そうなんていいながら、一番、日本の美や日本人の道理、精神性を踏みにじっているのは、彼らの方だ。ぼくだけではなく、ハーンも、サトウも、新渡戸稲造岡倉天心もきっとそう思うに違いない。

道理のふりをして、公共性を盾に報道に圧力をかけ、政権批判を無理に封じ込める。表現の自由が他の自由を越えるという民主主義政治、近代憲法の基盤を壊してまでも。

オリンピック開催にぼくは、もともと反対だったけれど、開催誘致でも、その実施計画でも無理があったことがいまではもう誰の目にも明らかだ。

強引な景気浮揚対策は、一部の企業、国民にとっての飴で終わり、一番支援の手が届かなくていけない人々にはまったく反映されていない。それでも、景気対策の誤りを認めるどころか、株操作の景気対策をまだ無理押しする。

地震があっても、原発の安全性については素通り。危機管理を安保関連法成立で叫びながら、防災上の国民の安全安心の実行には原発輸出もあって応えない。防災は棚上げしても危険な原発推進を無理に押し通す。

そして、今日、また、沖縄で米軍基地がらみの女性殺害事件があった。ひとり沖縄だけに日米安保を押し付けている現実が、オバマ大統領が来日する直前に、悲しいことに立証された。それでも、辺野古基地問題を含め、沖縄に痛みを押し付ける無理を押し通そうとする…

無理はそれを押し通そうとすればするほど、亀裂を生む。つまり、周りを巻き込み、傷つけられる人々を生み、道理を破壊する。無理を通すことが、真に社会的使命だの、国民の安心、安全、幸福の道だったためしは、歴史上、ひとつもない。

そもそも、無理が通らなくなっているのが、いまの社会の現実だ、世界の現実だ。自然環境も、エネルギー政策も、安全保障も、いままでのような無理を道理とすり替えるやり方では、この先、立ち行かないことがわかっている。

道理が通れば、これまで、そして、いまの無理が通らなくなる。それを恐れる人たちが、劣等感を圧力に変えて、反駁するもの、対立するものを力でねじふせる。

本当に力と自信のある人は、無理が通らなければ、それが無理とわかり、反省し、訂正し、修正し、道理にかなう道は何かを考え、行動する。

少なくとも、それがごく当たり前の人の道、道理というものだ。