秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

病んでいる

ここ最近の忙しさで、外出が多いこともあるのだけれど、なぜか電車の車内や駅、道路、イベント施設といった公共の場で、いろいろと非常識な風景に出くわす。

数日前もミッドタウンに面した外苑東通りの歩道をリードがつけられていない犬がいた。ぼくは、遠くから座り込んで、いきんでる犬の姿を見て、すぐにうんちをするぞとわかったんだけど、近くに飼い主らしい人影がない。

うんちを終わった犬が駆け足で走り出すと、ずっと先にひとりすたすたと歩いてる中年のラフないでたちの男性に駆け寄り、そばを歩き出した。

人通りの多いミッドタウン近くの道路で飼い犬にリードをつけていないのは、そもそも条例違反だけど、犬を連れて外出するときは、おしっこやうんちの始末をしなくてはいけないのだから、犬にそばを歩かせるのが常識だろう。犬にその気配があれば、飼い主は、始末のために犬の粗相が終わるのを待つ。

だけど、当の飼い主は、まったく意に介してなくて、まるで公共の場とプライベートの場の区別がなく、それが習慣のようにしてい歩いている。どこかで、そうやって、コロコロしてけむじゃらのかわいい犬を従えていることがかっこいいと思っている風情がただよっていた。

病んでいる。

それが当たり前のようにぼくらの生活の言葉になったのはいつからだろう。

ウッディ・アレンの映画を初めて観たとき、そこに登場するマンハッタンやブルックリン、クイーンズに住む登場人物がみなどこか病んでいる姿に、ニューヨークだからな…と思っていたけれど、いまでは、わすか10年、20年前のあの時代に描かれていた病んだ人の姿は、ぼくら日本人にも当たり前になってきているのかもしれない。

子どもの頃、人に自分の存在を知らせたくて、他人にやたらちょっかいを出す奴がいた。いたずらをする奴もいた。

場合によっては、ウソをついたり、文句をいわれることもあるのに、あえていやがることや面倒なことをやって、文句でもなんでいいから、自分に視線を向けさせようとする奴もいた。

そうした子どもは成長しても、どこかに不安があって、自分に自信が持てず、それでいながら、自分に関心を持ち、尊敬や敬意を持ってもらいたいと思っている人が多い。

寂しさを抱えていて、人からの承認の体験がなく、自尊感情が希薄だからなんだけど、世の中は昔のように寛容ではなくなっているから、そんなことをすれば、ますます、周囲からスポイルされ、孤立してしまう。

その孤立感やうまくいかないことを埋めるように、病んでいると思える言動に出てしまう。

だけどさ。病んでいると思える言動をする人が増えていくと、いつか、病んでいるという感覚ですら、人々の中から希薄になっていくんだよ。つまり、常識のないことが、常識のないことじゃなくなっていく。

ぼくはね。その中年の職業もよくわからないけど、きっと狭い世界の中だけで生きてきたんだろうなと思わせる風貌を見て、いま、そして、これらかのこの国には、こんな中年のおじさんに育てられて、常識のないことに気づかない子どもたちでいっぱいになっていくんだろうなって残念な気持ちになったんだ。

常識のない人、非常識な人、やたら常識にこだわる人、いい加減な人…いろいろあっていいし、いろいろあった方が社会はおもしろいけれど、せめて、生活常識だけは身に付けて、寂しい人は少ない社会の方がいいような気がする。

当たり前のことが当たり前になっていない社会は、寂しい人たちから狂気の人を生み出すこともあるのだからね。常識がないことが普通の、普通のいい人の顔をして。