世界が変わるとき
世の中には、名を挙げたい人、名を遺したい人がいる。
確かに、ぼくもだけど、人に認められたい、受け入れられたいとだれもが思う。人っていうのは、その字が示すように、必ず他者を必要とするし、しているんだ。
確かに、ぼくもだけど、人に認められたい、受け入れられたいとだれもが思う。人っていうのは、その字が示すように、必ず他者を必要とするし、しているんだ。
だけど、人に認められる、受け入れられることと、名を挙げる、名を遺すといったこととはイーコールなんだろうか。
ぼくはそうは思わないのさ。
ぼくはそうは思わないのさ。
世の中は、権力や富で回っている。それは、どのような制度であれ、政治体制であれ、同じさ。そこで名を挙げる、名を遺すということは、つまりは、制度や政治、それを支えている権力や富の力に従うってことじゃないのかい。
そこでよく思われるってことさ。だって、既存の力が名声や名誉の規範をつくり、その評価基準をつくっているのだからね。
ある人たちにとって都合のいい貢献をしたか、しているか、しようとしているのか。そこが重要であって、ある人たちと対立する人々やある人たちではない人たち、ある人たちの権力や富からはじかれている人たちのために何かを尽くしたということは問題じゃない。
もちろん、それを称賛して、自分たちの権力や富を強化するために、取り込むってこともあるけどね。決して、自ら、自分たちある人たちではない人々のために、力を尽くすことをその人たちはしない。
ぼくはいつも思うのだけど、名声や名誉をえるためではなく、自分の心に恥じず、かつ多くの人々に称賛されなくとも、ある人たちではない人々に認められ、評価されるものができたときの方がどれほど気持ちがいいだろう。
そうしたものこそ、本当にすべての人の心を打つものだとぼくは思っている。
そうしたものこそ、本当にすべての人の心を打つものだとぼくは思っている。
この国に限らず、政治家というものがつまらなく、くだらなく見えるのは、彼らがどういう立場、どういう考えにせよ、ありきたりな名声や名誉、称賛を求めているからさ。
何かを犠牲にしても、この世の何かを封じ込めても、自分たちある人たちだけの権益だけを守ろう、育てようとする人たちの名声欲と名誉欲は、醜い。
すべてはうまくいってる。社会にある解決しなければいない問題をそう切り捨て、逆らうものに権力で発言をさせず、政治的事情を立てに情報を開示せず、逆らう者を理論ではなく、ゴシップでたたき、それでも、自分たちにまかせておけばいいのだという姿勢は、もはや、下品の極みだ。
本当に、人に認められる、受け入れられるというのは、そんなものじゃない。計算や打算、駆け引きやいい子演技なんて使わなくていい。自分が自分に恥じず、人にも恥じないものがあれば、ただそれだけで、確かに認め、受け入れてくれる人たちがいる。
数は多くなくても、自分が自分であるために恥じず、こびず、納得できていれば、これ以上の満足と幸せはない。
名を遺さなくても、喜びを得られた記憶はいつまでも語り継がれるからね。それを目指す人があらゆる分野に現れたとき、世界は変わるんだよ…。