秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

プレゼン

人前で、なにかを語る。意見を述べる。人に提言する。

ぼくらのいまは、プレゼンというものが当たり前になってきている。

特定のだれかではなく、不特定多数のだれかに、何かを伝える。伝えないまでも、いまここに、これがあるということを強く他者に印象づける…

そうしたことがぼくらの生活の場に広く浸透し、すっかり当たり前の顔をしてそこにいる。そういう時代の真っただ中にぼくらは生きている。

かつては、限られた人間のものだったそれが、いまではすっかり、不特定多数のだれでもありえるものになった。

テレビが登場し、衛星による同時中継が可能になり、ぼくらの世界、社会は大きく激変した。地球の遠くの出来事を視覚的に、リアルタイムで人々が共有するようになったからだ。交通手段、技術の発展と重なり、地球は驚くほど小さくなった。

それは同時に、自分たちの生活の出来事も見知らぬ不特定多数のだれかに共有されるのと同じになった。ITの登場と進展は、さらにそれを広げ、かつ複合化した。

マスメディアが、意図的にセレクトした視覚的情報の共有だけでなく、マスメディアはフォローしない、できない市井の人々の情報までもが、ネット動画、SNSによって発信でき、共有されるようになった。

それによって、人々はだれもが、いつでも、どこでも、不特定多数の人々にプレゼンができる世界が出現した。だれもが主役になれる時代が到来したのだ。

結果、ぼくらは、常に、不特定多数のだれかを意識しなくてはいけない生活を生き、同時に、不特定多数が、無名のだれかでも、手の届く、身近なパイになった。

ネットからタレントや歌手、小説家、芸人、イラストレーター、クリエーター、アスリートが誕生する。企業や政治、タレント、ただの人のスキャンダルが一瞬にして世界中に広がる。昨日まで素人芸、マニアック芸、無名だったものが、メジャーに踊り出る…。

それは人々の夢の実現への道を多様にし、速度を速めてくれたけれど、なりふりかまわない、売名の欲求をも増大させている。
衆目を集めることの快感を人々に蔓延させている。湯水のように量産される「の・ようなもの」がぼくらの生活の普通になった。

そして、もうひとつ。不特定多数に見せるための、劇場型といわれる事件が頻発するようになった。

だが、問題はそのことではない。快感の発露としてのプレゼン。劇場型事件という演劇性をとるプレゼン。それらに対して、ぼくらがじつに無力になったということなのだ。

快感の発露、あるいは欲求として登場するそれら、不特定多数を意識して出現した事件のそれらを、情報の生々しさ、プレゼンだけに関心を奪われ、そのプレゼンの背景にあるものを知ろうとしなくなっている。

不特定多数の関心を集めることだけを目的としたそられに、ぼくらは彼らの望む反応を模範解答のように示すことしかできていない。

すごいだろ。こわいだろ。おそろしいだろ。といわれて、すごい、こわい、おそろしいの反応をオーム返しのように返しているだけだ。そして、脅威や驚きだけを刷り込まれ、傍観者、視聴者のようにそこに佇んでいる。

そして、その中のだれかが、プレゼンターとなり、感情の発露として、批判を差別や暴力に増幅させるように、プレゼンを始める。

あるときのそのプレゼンの風景が、社会を、国を、世界を、地球全体を戻れない軌道へ導かないという保証はどこにもない。