秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

祭りのあと先

ぼくが演劇に没頭していたころ、いつも意識していたことがある。それは、演劇の時間の前、そして、演劇のあとの時間のことだ。

演劇の使命は、そのとき、その瞬間、舞台と劇場の時間と空間を観せる側と、観る側が共有することじゃない。あと先の方がはるかに重要なのだ。

チケットを買った、そのときから、演劇の時間は始まっている。

非効率そのものである、演劇は席数にも公演期間にも限りがある。前持って、チケットを購入しなくてはいけない上に、都合よく自分のスケジュールの空きにいけるわけでもない。

公演日が近づくうちに、仕事や別の用件も生じることがある。だが、それを調整し、万難を排して、仕事終わりや学校終わりに、電車や地下鉄、バスに乗り、劇場へ向かう。それは、演劇の時間なのだ。

公演が終わり、同伴者と食事をして帰る人もいるだろう。あるいは、ひとり、電車に揺られ、バスに揺られ、徒歩の道も入れて帰る人もいるだろう。

芝居が終わった時間の中で、芝居が脳裏をよぎり、反芻し、考え、演劇がくれた時間を人はそのあとも生きる。それは、また、演劇の時間なのだ。

つかこうへいは、それを「オレの公演の目的は、若いカップルが来たとき、帰りにラブホにいけるような芝居ができたかどうかなんだ」と、つからしいユーモアとアイロニーで語っていた。

ぼくは、演劇や映画を含め、仕事や社会活動の中で、様々なイベントを100件以上やっているけれど、その根幹にあるのは、このことだ。

にぎわいや華やいだ空気をつくるためのイベントは、人にメッセージを届けることはできない。いまそのときの、なにかを伝えるだけのイベントは、単なる行事に過ぎない。

多くはやる側の満足のためであって、そこに観客はいない。いるのは物見遊山の人たちといわゆる関係者の集いでしか終わらない。不特定のだれかはそこに想定されていないからだ。されていたとしても、不特定を特定に変える、演劇の力はない。着想や発想の根幹に、しくみとして、理念としてそれがないからだ。

演劇の時間でもっとも大切なのは、終わったあとだ。終わればいいのではない。終わったあと、不特定の見知らぬ観客がまたこの芝居を見よう、あるいは、他の舞台を見てみようと思えるかどうかにかかっている。

演劇のおもしさ、そこにあるメッセージが伝わったかどうか。演劇はその評価に常にさらされている。非効率ともいえる上演形式の中で、その1点を意識してつくられる舞台は、趣味嗜好の違いを越えて、人の心に届く。

そうではない舞台は、要は、伝えるべきメッセージはあっても情緒的なものであって、自己満足に陥り、広がりと共感の波紋を生まない。あと先がないからだ。あったとしてもわずかないまとわずかな距離のあと先しか、見えていないからだ。

それは非効率な演劇より、はるかに無駄に時間と労力と金銭を浪費している。誰を見て、何のために、なにを根付かせようとしているのか。それが使命として共感がえられるものなのかどうか。


その問いが失われている。

71年目の敗戦記念日に向けていろいろなイベントがまた始まる。これからの時間をそのイベントはどれだけ人々に示すのだろう。