秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

声なき人は待っている

愚かさというものに人は気づけない。

気づけないから、自分は愚か者ではないと人は思う。愚か者ではないから、自分の発言やふるまいは、人々に受け入れられているはずだと思い込む。

自分が不正や不義、不遜なふるまいをしていても、それは不正でも、不義でも、不遜でもないと思い込むこともできる。

それどころか、逆に、誠実であり、誠実に語る自分の言葉やふるまいは、不正や不義、不遜ではないのだから、人々に受け入られると勘違いもできる。

愚かさとは、勘違いの最大の要因になる。

その勘違いが、人々に自分がどう見えているか、どういう表象としてそこにあるかを見失わせる。

見失わないために、自分の勘違いを勘違いと思わせない人の集合の中にいようとする。つまり、多くの人に映る自分の姿ではなく、自分が思う自分の姿を無条件で受け入れてくれる人たちの中だけにいようとする。

私たちの社会、国は、いまそういう人たちが増大している。

閉じた人間関係の中で行きたがる人たちだ。閉じた輪の中で、充足したい人たちだ。閉じた世界を閉じていると自覚のないまま、閉じた中だけで通じる非常識を常識として生きる人たちだ。

これは、今回の甘利氏の疑惑とこれを手早く終わりにしよとしている政治の世界のことだけではない。自分たちだけで通じる非常識を世の常識としている人たち、しようとしている人たちは、この世にあふれている。あきれるほど、あふれている。

同時に、それを非常識とも疑わず、受け入れている閉じた社会の閉じた国民がいる。

世の真実、いまの社会、国をつくっている背後にある真実に目を向けず、向けたとしても、本質を語らず、より優位に立とう、より有利な評価をえようと同じように閉じた社会の閉じた理屈を並べたてているだけだ。

冷静に、沈着に、腰と肝をすえて、いまのこの世のありようをとらえ、軽薄な非難合戦ではなく、理論と理想と現実と信念を持って、100年後のためにいまを生きる人の登場こそ、声なき人は待っている。

だが、声なき人こそ、主役であろうとしないところに、この国の、この世界の悲しい、愚かさがあるのかもしれない。