狂気と評価
よく考えてみれば、人の評価や評判を気にしてこなかった。自分がやり遂げたいことや取り組みたいことがあり、それを貫徹することには必死だったかもしれない。
評価は高い方がいいし、評判はいいに越したことはないが、場合によって、自分の意志や願いといったものを実現しても、そう評価されないことも、大して評判にならないこともある。
評価は高い方がいいし、評判はいいに越したことはないが、場合によって、自分の意志や願いといったものを実現しても、そう評価されないことも、大して評判にならないこともある。
そこに重きを置くようになると、自分がやろうとしていることの根幹にある、志や理想、夢といったものが、歪められるような気がする。いや、きっと、評価や評判を基準にしていると、本来のやりたいこと、実現したいことの根幹まで揺らぐだろう。
自分が思う評価や評判をえるために、つまらない妥協もすれば、さかしまな打算もやるだろう。そして、自分がそれをやるという最初の動機すら、確かなものでなくなる。
自分が思う評価や評判をえるために、つまらない妥協もすれば、さかしまな打算もやるだろう。そして、自分がそれをやるという最初の動機すら、確かなものでなくなる。
そういう人や組織というのは、決して、志や願い、理想、夢があるものとはいえない。最初からそんなものはなかったとしかいいようがない。
最近、志とか、理想、夢といった言葉がよく聞こえるようになっている。だが、ただ、やみくもに、志があればいいのでも、理想を持てば片付くのでも、夢があれば済むことでもない。そこにはきっとそれを装飾する言葉がついている。
他に利する志。孤高の理想。見果てぬ夢。ほかにも人により、そこには自らが抱くそられを語るための装飾語がある。そして、それが確かに、示せるのは、装飾された言葉の意味のとおりに、やり抜くということしかない。
そのために、犠牲にするもの、不義理を与えるもの、迷惑をかけるものがきっとあるだろう。不利益や不利不足は当然のことだ。
だが、やると決めたことは、やる。やれるのは、その人の持つそれらがしっかりと心に根を持っているからだ。それがあることで、人は道半ばで倒れても悔いがない。大きな犠牲があっても、厭わず前へ進める。
ただひとつ、その狂気に付き合ってくれる仲間や支援者がいなくてはそれもかなわない。狂ったような人間は、大方、世間とはうまくやれない。きっと要領も悪いだろう。
それを支えてくれる人間がいて、はじめて、狂気だったものが、他に利し、孤高の輝きを持ち、いつまでも夢を追う力となるのだ。
昨夜、ふと思ったのはそのことだ。気づけば、知らないうちに、思いもよらない評価の輪の中にいさせてもらっている。
昨夜、ふと思ったのはそのことだ。気づけば、知らないうちに、思いもよらない評価の輪の中にいさせてもらっている。
人は知らないところで、しかし、しっかりと人を見ている。珍しく、謙虚に、それに気づく。