秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

明日への志

多くの人は、今日やるべきことを考える。だから、多くの人は、今日をどう生きるかを考えない。当然だ。今日やるべきことを考えないと生きていけないからだ。
 
だが、人はただ、生きればそれでいいのだろうか。
 
悲惨な紛争や戦場にあって、苛酷な被災の現場にあって、多くの人がただ生きるといことに必死なとき、その問いは一見通用しない言葉のように思える。無力に思える。会社がつぶれる、金がそこを突く…明日の暮らしも立ち行かないとき、とてもそんな問いを持つことなどできない。
 
人はそう思うだろう。
 
いまそこにある、飢えと寒さ、不安と怯え、生命の危機にあって、今日やるべきこと、今日一日を生きることで精一杯で、とても、今日をどう生きるかなど考えられないだろう。
 
それが当然であり、普通だと思う。
 
しかし、そうした苦難にあるとき、困窮した人々を救える力は、じつは、それが当然とする世界にはない。
 
そんな苛酷な渦中にあっても、今日をどう生きるかを考える人がそこにいて、初めて、苛酷な現実の中に、ある倫理や明日のために恥じ入ることのない悲惨の今日を生き抜こうという志が生まれる。

今日をどう生きるかを考えることは、明日への志を持つということなのだ。
 
自分ひとりのことに執着していると、不安にもなれば、怯えもあらわになる。計算や打算も働くだろう。だが、自分以外の人やいのち、その他のものへの思いが生まれると、かりに自分に不安や怯えがあったとしても、それをあらわにできなくなる。

なにかを支える一本の灌木であろうとすることで、人は、明日への志を持つことができるのだ。
 
それは孤独なことかもしれない。それは見たくもない人の無情や悲しみを目の当たりにすることかもしれない。あるいは自分の無力さや未熟さ、足りなさを痛感させられるだけのことかもしれない。

しかし、それが志を鍛えてくれる。おまえの明日への志とは、どれほどのものなのか…ほんとうにみんなのためなのか…ほんとうに自分の我欲から出たことではないのか…。そう問うてくる。
 
障害や困難、さかしなく、狡猾な人の姿や声にも惑わされず、心を揺さぶられずにそれができるのか…。その問いたちによって、明日への志は磨かれていくのだ。

ここには、そうやって鍛えられてきた、明日への志を抱く人々が紹介されている。
 
 
写真は、応援する会からメンバーになってくれた国見町役場の職員Aさんが、初めて国見町を訪ねたときに、面会の時間をつくってくれてお会いできた、国見町の太田久雄町長。国見は、除染処理や瓦礫処理で出た放射能廃土などの問題を抱えている。その中で、この苦難に直面した町長は、震災で倒壊した市役所の再興と合わせて、国見の明日への志を打ち出した。
 
それは、「オール国見」。いろいろな権益のせいで、これまであった対立や陣取り合戦…それはもうやめにしよう。その思いがどこかに込められている。
 
大仰なことはいえないがと断って、町長はいった。それが、福島県内の市町村に広がって、いつか「オール福島」につなげていきたい…今週末、震災のとき中断したが、国見ではそれまでの祭りから地域の歴史を掘り起こして、「義経祭り」が実施された。
 
 
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