秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ゲスの証

芸能界のゴシップや芸能ニュースといったものに関心がない。

かつては舞台をやり、CM・広告をやり、いま映画、イベントといった仕事をやっていると、そうしたものの近くにいると思われがちだ。

確かに、著名俳優といわれる方たちや著名アスリート、タレント、モデルといった人たちと仕事もすれば、著名識者ともシンポやトークショーもやっている。ヒットドラマのプロデューサーやテレビ関係者に知り合いもいる。

だが、こちらがやっているのは芸能の仕事ではなく、作品づくりだ。芸能界で仕事をしているのではなく、作品のための仕事をしている。

だがら、無名やまだそれほど名前を知られていない人とも仕事をする。作品のためであれば、著名無名は関係ない。また、彼らが抱えている芸能界的なネタやプライベートにも興味はない。

いい仕事ができるかどうか。いい仕事ができる人間であるかどうか。もっといえば、作品のために寄与できる存在であるかどうかが重要なのだ。

そこには、極端な話、人柄や人の善悪もなければ、正義不正義といった基準もない。ただひとつ、きちんとこちらの望む仕事ができるかどうか。それに応えられる技能を持ち、それを周囲に伝える道理をわきまえているかどうか。その1点に集中している。

今年に入って、芸能界の不倫騒動、解散騒動がマスコミを賑わしている。政界でもスキャンダルが昨年から続いている。

芸能ネタの話題も、政界スキャンダルも、何かが起きると、表層的なゴシップネタを楽しむか、やたら、擁護に回るか、分析や解説や批判の応酬をしたがる。

そして、切実さのない陳謝や謝罪の映像が執拗に流され、根拠も希薄に、意味のない擁護や詭弁を弄するものと、感情的で深みのない批判をするものとがマスコミや巷を賑わす。

そうした希薄な擁護や深みのない批判の対象になるということは、その言葉や視線にさらされている人間自身がその程度の存在でしかなかったことの証だ。

だが、さらに重要なのは、そうした人間の浅学さや希薄さを見抜けなかった、人々の観察眼の脆弱さ、程度の低さの露呈でしかない。

日々、流れるマスコミの情報や歪曲されているイメージ像や装飾ばかりを見て、その実態を知ろう、直視しようとしない。その怠慢がそうしたゴシップやスキャンダルを堂々と走らせている。

走らせているのは、愚かな自分たちだということに気づかない限り、知性と人知のある議論や情報のやり取りはますますできなくなる。

ゴシップやスキャンダルがまかり通っているのは、その程度のものが世の重大事のように思って楽しんでいる人々がいかに多いかの証だ。

作品のために寄与するとは、かかわりあっている人々、それを楽しむ人、そこから何かを得ようとしている人々に寄与するということだ。

言い換えれば、社会、国、世界に寄与できる人間とはだれか、できる未来とはなにかを私たちが真剣に考えてきていないことの、ゲスの証だ。それを恥じることのない、自分たち自身の情けなさだ。