秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人には負けるとわかっていて、闘わなくてはいけないときがある…

人が夢や希望を描き、それを実現しようと思えるためには、それが実現できると信じられる、何がしかのモデルいる。
 
ところが、この20年ほどの間に、人々は、夢や希望、それを目指すことの価値や可能性がことごとく、裏切られ、つぶされていく姿を目にしてきた。
 
社会というのは、前を歩くだれがの姿がある世代を軸とした縦の軸と同世代との横にらみの中で歩く横の軸がある。
 
これまでの男性中心社会では、したがって、モデルのありなしが大きく影響する。男子ほど、縦を軸とする社会がこれからの時間を読む座標軸になるからだ。
 
一方、女子の世界では、最初から男性中心社会の中の枠組みからはずされるか、はずされていることを当然とする意識があるため、この縦を軸とする社会の座標軸に執着しないし、縛られない。
 
それが、昨今、男子より女子の方が元気に見える大きな要因のひとつだ。
 
男子は、夢や希望、その実現の可能性がくじかれ続けてきた先行世代の姿を見て、挑戦的、冒険的であるより、安定的で確実性があり、裏切られるにしてもその痛手の少ない生き方をめざし、社会においても、そうした居場所を探そうとする。
 
女子は、その男子が脆弱になった間隙を縫って、男子とは違う価値観や視点で、横のネットワークを軸にしながら、縦のみに広がるのではなく、アメーバ―のように志向性にこだわらず、自在に広がろうとする。

言い換えれば、男子はオタク化が進み、カスタマイズ化が進む。女子は、現実的ではありながら、どの現実にも適合するアメーバ化が進む。

だが、いずれにも実現できない理想に向かって驀進するという挑戦と冒険は生まれにくい。
 
日本社会の保守化、右傾化がよくいわれるが、意識的、自発的にそれを選んでいるわけではないのだ。
 
変革できるという理想や夢や希望は実現できるという確信の持てなくなった社会で、現実的に生きる道を探すうちに、実現できない理想に向かって進むという、ある意味、現実否定の中から何かを築き上げるという意志と決意を持てなくなっているだけなのだ。

実は、こういう社会ほど危ない。意識的、自発的でない中で、ゆるゆると何かが拡大するからだ。
 
意識的、自発的な問いを持つことが難しい時代。だからこそ、やるべきは答えを与えることではなく、問いを投げかけ続けることなのだ。
 
投げかけた問いにどう答えるかは、それぞれの自由。だが、少なくとも、その自由は自分が選択している。そこに、意識的、自発的選択があり、だからこそ、自己責任というものが初めて成立する。

それがなければ、この言葉の意味は理解されない。

人には負けるとわかっていて、闘わなくてはいけないときがある…
人は負けるとわかっても、やりきらなければいけないことがある…