秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

のようなもの

生活に追われていると、日々の暮らしの糧をえるために多くの時間が割かれる。同時に、いまある仕事が続くかどうかという不安も同伴する。

そのために、自分の明日、未来につながる仕事ではなく、明日も明後日もある仕事を求めて心を砕く。自分の都合は棚上げにして、自分のための時間も後回しにして。人や周囲に合わせながら、自分の居場所をより確かにしようと奮闘する。

そして、周囲に振り回されない居場所が持てれば、きっと生活に追われることもなくなり、生活のために、必要以上の付き合いや周囲に合わせなくても生きられるときがくるはずだ…と考える。

あるいは、周囲に振り回されているうちに、振り回されることが当たり前になり、振り回されていることが自分の居場所を守ることなのだと思えるようになって、わずらわしさがあったものが心地よさに変わるということもあるだろう。

自分が主体的ではないことの楽さ。自分の主張を押し通すことの大変さ。それよりも、そこそこ刺激をもらい、のようなものとしてでも、やってる感、存在価値、存在意義をくすぐってもらえれば、本来の自分の生き方や考え方と違っても、人は、その場にとどまってもいられる。

大方の人が、仕事というものは、そういうものだといい。それに慣れ親しむことが勤めというものだと納得する。

だが、かつてと違うのは、収入の問題だ。そのように奮闘しても、世間並といわれる収入がえられない人たちが増えている。

先日、国会で、安倍総理が、野党の「貧困が広がっている」という指摘に、そんなことはないと厚労省のデータが示す現実をまったく理解できていない答弁をしてしまった。次の答弁で、そうした情勢もあると訂正したものの、総理に限らず、治世者が
生活者の実状をいかに理解していないかを露呈してしまった形だ。

3人に1人が非正規雇用。6人に1人が相対的貧困。これは子どもの貧困とパラレルになっている。女性で年収200万円以下の人は43%にもなる。アルバイト、パートが多いためだが、家計のために働く主婦層を除いても、多くの女性が厳しい現状にある。高齢者の生活も資産のない高齢者は厳しい現実にさらされている。

現在進行形で進む貧困は、現在のOECDワースト6位から数年後には、より上昇することは確かだ。

日本人は貧しさを恥とする民族だ。戦後、同じように貧しいときは、貧しさを恥としなくてもいられた。だが、一億総中流といわれ、消費社会から成熟化を迎えてしまうと、貧困はまるで、天然痘結核のように、治癒され、駆逐された病と同じ扱いになった。

そのため、貧困は人と違うこと、恥ずかしいことになった。すべて自分のせい、自分の生まれのせいとして、人にも言えず、貧困でありながら、貧困である大変さを訴えない。いや、訴えることができなのだ。いろいろな取り繕いをするか、取り繕いができないと怪しい仕事やブラック企業にひっかかる。

バブル崩壊からいまに至る過程の中で、政治は、無策といわれないために、国の姿を格差を前提とするアメリカ型社会へと意図して変えた。一部が収益をえれば、それが全体の生活を支えるという、終わった資本主義の幻想にすがる。アメリカや中国を見ればわかるように、それはいまでは格差を前提としてものでしかない。

固定した格差は、解消されることはない。資本主義の宿命であり、格差容認社会は、格差を広げるばかりだ。それは同時に、その国に生きること、自分がなにかの仕事に懸命に取り組むことの意味と意義を人々から見失わせる。

それが人の尊厳を傷つけ、追い詰めると、制度そのものへの反駁に変わる。テロの要因と同じだ。テロが生まれないこの国は平和な国だろうか。代わりに、先進国最大の自死者をいまだ生み続けている。

株価操作に血眼になり、財政出動の実体を隠し、一方で庶民の生活を追いつめる消費税を福祉のためだと言い続ける…。そのような政治、のようなものに、国を立て直す力はありはしない。