秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

芝居のしの字が知りたくて

オレたち、あるいは、オレの仕事というのはいろいろと誤解されやすい。
 
たとえば、どうしても仕事柄、美しく、若い女優さんやモデル、グラビアアイドル、その卵といった人たちと出会う機会が多い。ワークショップなどの講師でいくと、一層、そうした人たちと出会うことが多くなる。
 
そうなると、大方の人間は、女性好きの監督のことだから、きっと…と、あれこれ勝手な憶測をする。確かに、心惹かれる人もいないわけではない。
 
だが、食事を一緒にしたり、飲んだりすることはあっても、人が思うほど、軽率に口説いたり、付き合ったりはできないものなのだ。それなりの仕事をやり、それなりの志があれば、下世話でウワサされているようなことは、他であったとしても、きちんと相手と向き合う覚悟がないとできないのがまともなクリエーターというものだ。

あるいは、監督業や演出業というのは、途轍もなくギャラがよく、年に何本か仕事をしていれば、それで食べていける仕事なのだろうとカン違いされる。
 
いつも紹介するが、日本映画監督協会なんぞというところに登録している監督の大半は、監督業で食べていけていない。中には生活保護を受けている人間もいる。
 
かつて劇場公開映画を一本か二本撮って、そのときの、監督というだけで下にもおかない世界を知ってしまい、いまさらと見栄とプライドだけで、こないオファーを待ち続いてるか、時代遅れの映画企画を持ち込んでは、はねられるということをやっている。もっとひどいのは企画そのものを持っていない。まったくの受け身状態。

どのような作品であれ、年に何本かの作品をつくっていない人を厳密には監督とも、脚本家とも、舞台であれば演出家とはいわない。何年も現場にいなくて、そう呼ばれる人も多い。だが、最低、そう呼ばれる人には、時間はかかっても、本気でやろうとしている作品がひとつやふたつはあるものだ。
 
オレの場合、企画、プロデュースができるから、また救われている。自主企画の自主制作作品をつくり、大手の映画会社に販売してもらい、配給とのパイプをつくるということをやっているからだ。
 
だが、押しなべて、かつてCMや広告関連の仕事をやっていたときに比べたら、収入は雲泥の差がある。人が思うような法外なギャラをもらえる監督など実は数えるほどしかいない。

だが、食えている食えてない、ゆとりがあるゆとりがないにかかわらず、監督に限らず、俳優やモデル、タレントといった存在は、プライベートの世界と仕事の世界が同じに思われ、いろいろと誤解されやすいというのは同じだ。

公的な存在である部分が少なからずあり、プライベートが緩いと思わぬ影響が仕事に出るというのも同じ。だからこそ、いろいろに憶測や誤解はされても、どこかで毅然として、安易に流されないということが大事。
 
昨夜、ある先輩のつながりで、ピアニストの女性と女性モデルの方と食事をした。そのときも話したのだが、大方、女優や女性アーティストでダメになる人というのは、この安易さがある。将来不安から打算や計算で異性と付き合ったり、寂しいからととりあえずの孤独を埋め合わせたり…

どうせ打算や計算、寂しさで異性と付き合うなら、もっと自分自身の糧や成長につながる異性と付き合えばいいのにと思うが、端でみていると、そうした志ではなく、実に志の低いところでそうしている人が多い。つまり、せっかく可能性の芽がありながら、それを自分の弱さからつぶしている。

人並みというのが何かはよくわからんが、人並みの恋愛や結婚がしたいのなら、こんな仕事はやらないことだ。仕事でやるべきこと、自分が志として目指しているところへ少しでも近づくことが先で、それを見失わないところで異性との交際のあり方を考えればいいこと。
 
人の人生の目標や志というのは、何かをひとつずつ捨てていく先にしかない。それがわかる人でなければ、いい出会いもない。

芝居のしの字が知りたくて、女のおの字を捨てました。芝居のしの字が知りたくて、男のおの字を捨てました…というのは、チャらい一時の恋に溺れるな、やるなら、仕事の糧になる本気の恋をやれという戒めだ。