秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

2016年の年明け

若い頃は、何になりたいか。そして、何かになるために生きることで、自分という人間の存在証明を得ようとする。

やる気のある奴は、そうできるが、やる気のない奴は、何かになるためではなく、何かであろうとすることで、それを存在証明とする。

思春期や青春期といった時間は、いわば、そのいずれの存在証明でいくかに思い悩み、自分自身の思いや願い、熱意、あるいは狂気を問われる時間だ。

だが、いまは昔と違い、何かになるための存在証明も、何かであろうとする存在証明も、不確かなものになった。

自分が突き進みたい道は、当然ながら、そうあり続ける保証はどこにもない。同時に、何かであろうとして、仮に、何かでありえたとしても、そうであり続ける保証もなくなった。若年層を含め、女性の非正規雇用の増大はそれを示している。

企業や組織、集団に帰属しても、いつ自分がそこからスポイルされるかわからない時代になっている。いや、そうした人の集合自体が、存在の基盤、居場所であり続ける保証もなくなっている。

思春期や青年期の課題は、成人しても、いい大人になっても問われ続ける問いになったのだ。

熟練したとか、成熟したとか、充足したとか、充実したとかいった境地や世界は、ごく限られた世界のものになり、ごくわずかな職種や仕事に限定されている。

そこまでこだわらなくても…といえる誘惑やゆとり、選択が膨大に広がってきたからだ。何かになる、何かであろうとする以前に、その可能性を信じること自体ができなくなったこともある。

少子化対策や高齢者対策、女性の雇用と活用、婚活、地方創生、もっといえば、わけのわからない1億総活躍社会といった言葉はあふれていても、何かになる、何かであろうとすることでえられる存在証明自体の信頼の回復、証明の保証がなければ、ただの言語ゲームに過ぎない。

東京オリンピックが出鼻からくじかれ、こんなことがあっていいのかという非常識がオリンピックに限らずまかり通っている。そもそも、IOCの会長を始め、役員がまたぞろ、収賄容疑で逮捕、起訴される事態にある、オリンピックが、その本来の精神を維持などできているはずがない。

マスコミも、だれも存在証明の信頼の回復、補完の重要性を論じない。それは、皮肉にも現状認識がだれにもできていないことの存在証明だ。

ニーチェが、ヤスパースが、サルトルが…泣いている、2016年の年明け。