秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

演劇的なるものの応用の時代

徳島へ提出する企画書の下調べ作業がことのほか長引いている。これ実は、MOVEの目指す、地域新生プロジェクトとも深い結びつきがあって、より丁寧な作業になってしまっているのだ。
 
大学時代、シェークスピアを原書で読みたくて英文科に進んだが、その傍ら、演劇の演技論、演出論として、鈴木忠の影響で、世阿弥花伝書を読みふけり、能楽や歌舞伎をみていた。高校時代演劇部の必須図書だった、定番のモスクワ芸術座の演出家スタニフラフスキーの「俳優修行」も読み直した。そして、水野先生の講義で、それに反抗して、ロシア革命期に活躍した、同じくモスクワ芸術座の前衛演出家で、ビオメハニカを持ち込んだ、メイエルホリド。戯曲家で詩人のマヤコフスキーなど、ロシアシンボリズムの運動をずいぶん勉強した。
 
その延長に、ポーランドの演出家グロトフスキーの「持たざる演劇」やイギリスの演出家ピーター・ブルックの「なにもない空間」などを読み漁った。そして、再び帰着したのが、世阿弥の「花伝書」。
 
そこには、近代から現代へと演劇が新しい演技論、演出論と向かう軌道と帰着のすべてが、すでに描かれてあったからだ。シェークスピアが活躍する16世紀以前、300年も前にだ。西欧演劇が20世紀になってやっとたどり着いた新しい演劇のすべてが13世紀を生きた極東の島国の河原者、男色を生きたひとりの能役者の伝書に封印されていた。

そこにあるのは、簡単にいってしまえば、あらゆる余剰を排し、意識が身体や時空を超える瞬間を観客の前に現前化させる…ということのリアリティ。
 
抽象的でわかりにくいだろうが、舞台という多くの制約を逆手にとり、舞台に広大な宇宙を持ち込むということだ。これは、哲学の分野では、フーコーやメルロポンティ、デリタといった哲学者によって概念化されていった。
 
たとえば、茶室。意図して、背中を丸めなければ入れない上り口を設け、わずか4畳半の世界に掛け軸や生け花といったささやかな装置だけを設け、逆に、その狭さ、小ささの中に広大な自然界のリアリティを得ようとする。小さな床の間に置かれた一輪の切り花が、異形の姿であるがゆえに、その背後にある艶やかに咲きそろう梅や桜を強烈に実感させる。
 
その世界を身体所作によって生み出そうとするのが、世阿弥の演技論といってもいい。
 
つまり、意識の飛翔といっても、ただイマジネーションといった脳のイメージ力だけに頼るのではなく、圧倒的な蓋然性を持つ、身体を使ってそれを実現しようとする。だからこそ、能役者が数歩、足を踏むだけで、時空が一遍する世界を観客は容認し、違和感なく、過去、現在へと行き交うことができる。時間の不可逆性との闘い。空間転移の現実における時間、距離の限界を超える。それがクソリアリズム演劇以後の演劇の命題。
 
実は、この考えを地域新生の基本構想に応用しようとしている。数回前のブログでも書いたように、東京で南相馬の支援活動をやっている仲間は、東京にいながら常に南相馬の人々と共に意識の上では生活している。しかし、そこには具体的に浮かびあがる、南相馬のおばちゃんやおじじゃん、おにいちゃん、おねぇちゃんの顔がある。
その身体がつくる祭りや農水産物がある。方言があり、笑い顔があり、泣き顔がある。
 
身体を通じてつながった糸が、現実の距離、時空を超えて、共にある。その仕掛けとしてのプラットホーム。それは、いわば、凝縮された茶室という場の創造でもあるのだ。

意識が身体を使って、身体、時空を超える瞬間。それを恒常的につくることが、地域新生。地域間市民協働の新しい姿になる。いまこそ、演劇的なるものの応用の時代。