深く考える
2015年という年は、私たち日本人にとって、後の時代に歴史の転換点の始まりとして記載される年となるだろう。
歴史の転換点はそのとき、その瞬間に始まるのではない。
病がある日突然発症するようにみえて、じつは、長い生活習慣や仕事のストレス、生活環境によってもたらされるように、発症するまでの間、短い、早いの違いはあれ、その発症したときから始まるわけではないように。
だが、そうした転換点の始まりに多くの人は気づかない。いままでの延長に、いまの日常があり、多少の不具合や不都合があっても、いまの日常の延長の近い将来か、遠くない未来、あるいは少し先の将来において、不具合や不都合もやがては解消されるだろうと考える。
だが、そうした転換点の始まりに多くの人は気づかない。いままでの延長に、いまの日常があり、多少の不具合や不都合があっても、いまの日常の延長の近い将来か、遠くない未来、あるいは少し先の将来において、不具合や不都合もやがては解消されるだろうと考える。
これまでの日常と、いまある日常、その延長にあるだろう日常をこわしたくもなければ、失われるとは思いたくないからだ。そして、もし、失われるようなことがあったとしたら、次にどのような日常を生きればいいかが見当もつかないからだ。
平穏で無事な日常など、本当は、この世にひとつも存在しない。からくも、そう信じてこれたのは、いくつもの偶然といくつもの幸いがそこに働いていただけのことだ。
平穏で無事な日常など、本当は、この世にひとつも存在しない。からくも、そう信じてこれたのは、いくつもの偶然といくつもの幸いがそこに働いていただけのことだ。
2011年。私たちはそのことを痛烈に突き付けられ、実感した。しかし、残念ながら、あのとき、多くの人々が共有した、その日常の危うさの感覚は、わずか5年に満たない間に、過去の記憶にされてきている。
病がそうであるように、病の因子はだれもが持っている。個々の免疫力の差や置かれた生活状況の違いによって、残念ながら、発症する人としない人がいるだけに過ぎない。
だとすれば、私たちが慣れ親しんできている日常そのもののを疑い、病の因子を内包したままのこれまでの日常と決別し、抜本的な変更をしなくては、目の前に迫る危機的課題にも、将来まちがいなく訪れるであろう社会的、世界的課題にも対応できない。
そう考えて、社会システムや制度を見直し、政治や経済、社会構造の在り方を基本から見つめなおす。その大きなチャンスを私たちは、生かすことができかなった。
始まったのは、これまでと同じ経済成長路線であり、これまでと同じグローバリズム神話であり、これまでと同じ、いや、過去の成功体験のコピーでしかなかった。
だとすれば、私たちが慣れ親しんできている日常そのもののを疑い、病の因子を内包したままのこれまでの日常と決別し、抜本的な変更をしなくては、目の前に迫る危機的課題にも、将来まちがいなく訪れるであろう社会的、世界的課題にも対応できない。
そう考えて、社会システムや制度を見直し、政治や経済、社会構造の在り方を基本から見つめなおす。その大きなチャンスを私たちは、生かすことができかなった。
始まったのは、これまでと同じ経済成長路線であり、これまでと同じグローバリズム神話であり、これまでと同じ、いや、過去の成功体験のコピーでしかなかった。
年末年始だから、なにかが大きく変わるわけではない。だが、お祭りイベントに紛れて、見失っていけないことが、じつは、そのすぐ脇に置いてある。
1年生きられたことには感謝だが、だからといって、ただ感謝だけしていればいいのではない。感謝は、次の時代を生きる人たちのための行動として示さなくては、だれもわからない。
言葉ではなく、行動を。机上ではなく、現実と現場を。打算からではなく、清廉さから。
年かかわったからといって、なにかが始められるわけではない。これまで気にもとめず、やってない人が、年が変わってできるのなら、すでにやっている。
始めるより前に、心をつくることだ。できる心をつくるために、深く考えることだ。