ありがたさ
世の中の変化や自然環境の異常、あるいは人心を含む時代変化というのは、ある日、突然やってくるのではない。
大きな変化や出来事が起きる前から、いわば、サイファ、暗号のようにして、そのときがくるサインが出ている。
だが、日常という時間は、これらに目をつぶりたがる。見なかったこと、見えなかったことにしたがる習性が日常を生きる私たちの中にあるのだ。
なぜなら、それを現実視して、日常に引き寄せてしまうと、いまある日常のもろさ、弱さと向き合わなくてはいけない。それはいまある日常のあり方を抜本的に見直す必要を要求してくる。
日々のルーティンワークをきちんと繰り返すことによって、日常は成り立ち、かつ、日常の価値や意味をもたらしている。それは安心にもつながり、未来予測にもつながる。
だが、サイファを解読してしまうと、そのルーティンワーク、制度やシステム、それにのっかている生活すべてを変更しなくてはいけない。
それには、大変なエネルギーとコスト、そして、あらゆる制度的枠組やそれを成立させている安心を放棄しなくてはいけない。そこに強い無意識の抵抗が生まれ、サイファを見なかったこと、見えないかったことにさせてしまうのだ。
防災において、どこかで大きな被災や事故があると、一時は真剣に取り組みながら、時間経過とともに、それらが形骸化し、訓練や演習を繰り返していても、切迫感が失われるのもそれだ。
防災において、どこかで大きな被災や事故があると、一時は真剣に取り組みながら、時間経過とともに、それらが形骸化し、訓練や演習を繰り返していても、切迫感が失われるのもそれだ。
人はいま身近にあるもの、いる人、あるいは自然やそれがもたらす生活のすべて、食やエネルギー、それらを支える生産や流通、もっといえば、経済総体がいつも同じで、変わらないものであってほしいと思っている。
そしていつか、それはいつまでも変わらないもの、日常は堅牢なものだと誤謬する。
だから、それが失われると悲嘆に暮れる。
私たちの日常は、からくも成立する一瞬の奇跡にも近いものなのだ。だから、「ありがたい」という言葉がある。しかし、言葉でそういえても、だからこそ、日常という枠組の中で物事をとらえていては危いということになかなか気づけない。
私たちの日常は、からくも成立する一瞬の奇跡にも近いものなのだ。だから、「ありがたい」という言葉がある。しかし、言葉でそういえても、だからこそ、日常という枠組の中で物事をとらえていては危いということになかなか気づけない。
私の地元である九州の阿蘇がおだやではない。
震災直後から、全国の休火山、活火山に変化が起きているという指摘がされていた。太平洋プレートの移動による東日本大震災は、終わりではなく始まりに過ぎないという警鐘もされていた。
震災直後から、全国の休火山、活火山に変化が起きているという指摘がされていた。太平洋プレートの移動による東日本大震災は、終わりではなく始まりに過ぎないという警鐘もされていた。
だが、震災から4年近くが経過する中、被災地の実状や福島の現実が多くの人々の意識から薄らいでいくように、そうした変化、これまでとは明かに違う気候など自然の変化に、人々は向かい合おうとはしていない。
別に、自然界や政治といった大きな問題にして考えなくてもいい。
家族や地域、自分の身の周りの生活すべてが、わずかこの数年で大きく変わり、自分が子どもだった頃とは、人々の生活意識も人とのつながり方も、深いものから浅いものへ、やさしいものからそうではないものへ変わっているのを感じているはずだ。
いつどのような日常の転換がくるかわからない。その不安は、人々の中にある。
家族や地域、自分の身の周りの生活すべてが、わずかこの数年で大きく変わり、自分が子どもだった頃とは、人々の生活意識も人とのつながり方も、深いものから浅いものへ、やさしいものからそうではないものへ変わっているのを感じているはずだ。
いつどのような日常の転換がくるかわからない。その不安は、人々の中にある。
それは、これまでの時代の中で、あの戦争が起きたときと同程度か、それ以上のものだろう。
だからこそ、いまのありがたさをどうすれば、生きられるのか。いまのまま生きられないとしても、それに準ずる新しい生き方、日常のあり方は何なのか。いまの生活に追い立てられていても、その思考の回路を閉じてはいけない。
大切なものを本当に大切にするためには、大切なものがなにか、大事なものがなにか…ありがたさを知るところからしか始まらない。
そして、ありがたさを知ることは、いまある日常にしがみついて、それに執着することでもない。
そして、ありがたさを知ることは、いまある日常にしがみついて、それに執着することでもない。