秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ありがとうございました。

支援する、される関係。支える、支えられる関係。与える、与えられる関係…。それは、互いの成長も、自立も、学習も生み出さない。

確かに、人が自分ひとりの力でできることなど、ほぼないといって等しい。この世に生をうけるときから、私たちは多くの人の支えや献身、犠牲の上にあり、かつ、その積み重ねの上にいまを生きている。

だが、それは、将来において、自立していくための支えや献身、犠牲、場合によって奉仕を受けているのに過ぎない。もちろん、いまのような格差が当たり前の時代では、そもそも、自立のためのスタートラインにさえ、立てないという人たちも少なくはない。

ある時期、自立的であり、自立した毎日や生活が送れていたとしても、突発的な事故、病気、被災、職業を失うといった自分の力だけでは解決できない事情によって、それが奪われることも少なくはない。

しかし、それでも、いわゆる社会的に追い込まれ、苦難や困難にある人々へ、冒頭の支援する、される関係、支える、支えられる関係、与える、与えられる関係だけのつながりでは、なにひとつ、互いの置かれている現実も、そこにある苦難や困難の要因となっているものも、互いに理解することできないだろう。

情や憐憫、それらを背景とした共感は、一時は維持できても、長く持続し、継続することは難しいのだ。支援する、される関係も、支える、支えられる関係も、与える、与えられる関係も、そうした情感や心情を背景としているから、対極的な関係から一歩深く踏み込むことがない。

される側は依存を強くし、する側は、それを社会貢献と勘違いする。断ち切れない、共依存の関係が膨らみ、それぞれがそれぞれに、大きな勘違いをした関係を次の世代にも残していくことになる。

大切なのは、互いがどういう関係を築き、その関係を「する」「される」の関係ではない、対等の関係として、共に歩めるかなのだ。

それは、共に学ぶという道しかない。教育には、自学、他学、そして共学がある。自分で学ぶ、人から学ぶ、そして、共に学ぶ。もっとも、大事なのは、3つ目の共に学ぶだ。

教え、教えられ、学び、学び合う関係だ。教育とは、人を恣意的な枠組みに入れるという点で、本来、不遜なものだ。だが、それがあることで、不遜である教育が、自由と自立を育てるものに変わるのだ。

12月5日。福島県委託事業の最後の事業が終わった。最後の場を中学校という教育の場で終わらせる。そう願い、青山中学校の校長先生を始め、PTAの協力で実現できた。震災から3年経ったときから、この実現を夢みていた。

もちろん、小さな、小さな一歩でしかない。だが、そこに踏み出せたことは、私が願う、支援する、される関係ではない、共に学ぶ場と関係が動き出す契機だと思っている。

県委託事業は、また、私に多くのことを教えてくれた。同時に、私の願いのこれからの進む道も示してくれた。

いろいろな残務整理や書類づくりはたくさん残されているが、そうした出会いと道をまた教えていただいた、みなさんに深く感謝します。

ありがとうございました。