秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

大人たちの背中

人になにか負担や犠牲を強いるとき、人の道理として、その負担や犠牲に見合うなにかを自らにも課すというのが、本来のあるべきことだ。

部下に無理難題ばかりを要求し、自らはなにひとつ手を汚さず、部下の仕事の進展のために、努力をしない上司は尊敬されない。

部下と同じ負担や犠牲は払わなくても、上司としての負担や犠牲は払う。それがなくては、上席に座っている意味も、上席である価値もないことになる。顧客から無理難題を要求され、ただがまんしろではなく、顧客のその上席と交渉するのが、上席にある者の務めだ。

いまどき、古臭いかもしれないが、人は人の背中を見ているのだ。もちろん、範を示せればとがんばっている上司を見ても、ああ、あれは上司の仕事だからさと意に介さない、情けない奴も増えていないわけではない。

しかし、その範を示すという負担と犠牲があるからこそ、意見もいえれば、浅薄な考えを諭すこともできるのだと思う。

もちろん、全人格的に優れていなくてはといっているのではない。人には、その立場や役割、役職にかかわらず、欠点もあれば、だらしないところも、ダメなところもあるだろう。

だが、他者に対して、負担や犠牲を求めなければいけないときは、そうした個々の事情や性質を越えて、己のおかれた立場に順じなくては、人として、人間として、恥ずかしいことだと私は思う。

軽減税率は与党間の参議院選の駆け引きの都合で財政再建は棚上げにされて落ち着いた。さらに、低所得層には30000円を一律支給も検討されている。

総額3000億円。軽減税率も合わせて、1兆6000億円の福祉予算が消えた。当然、これは、急激な景気回復で税の増収がない限り、別の増税によって賄われることになる。あるいは、また、国債の発行に頼る。

だが、問題はそこではない。そもそも、消費税が8%に増税されるとき、議員定数の削減、議員の給与削減、国家公務員の削減などなど、政治が自ら襟を正し、居住まいを正すというのが対になっていたはずだ。

国民に負担を強いる以上、政治を動かすもの、政治にかかわる機関、組織、そこからまず負担と犠牲を引き受ける。それが、たとえ、実現がすぐに難しいものだったとしても、そもそも論としてあった。それが、いまでは、いかにも国民生活を勘案して、連立政権与党が腐心しているようなアピールのされ方をしている。

自公連立政権になって国債の発行はうなぎのぼりだ。日銀がそれを買い支えするという禁じ手を続けている。新規産業や雇用を確保する大きな社会プロジェクトもなく、低所得層が増え続けている現状に何ら有効な施策もないまま、株と円のマネーゲームで、それが乗り切れるわけでもない。

政治、選挙の駆け引きのために、経済がもてあそばれ、税の行方が決まる。アメリカ依存の外交も、これにつながる憲法や関連法案も、じつは、経済の実体が一部を除き、相対的に弱いがゆえに、軍事産業関連やこれに付随する産業の増大で乗り切ろうとしているからだ。

戦後、そもそも論をやることが、これほど遠くなった時代はないのではないだろか。それは政治の世界だけでなく、私たち国民の間においてもそうだと思う。

そもそも論のないところでは、いまの議題を近視眼で語ることで健全であるかのような錯覚を人々は持つ。そして、そもそも論ないところでは、政治も国民も育た
ない。

そもそも論を語らない、大人たちの背中を子どもたちは、どうみつめ、なにを学ぶだろう。そんな大人はいやだなら、まだいい。そんな大人でいいのだが一番、不幸だ。