幕開けへの道
じつは数週間前、ひどく体調が悪かった。
血圧がいままで経験したことがないほど、高く、以前、発症した胸膜炎のときと同じような痛みが背中や胸に走っていた。
敏感に気がついたのは、いわきのOさんとKさん。あまりに酒の進まない私の姿を目の当たりにしたからだ。
どうしても原稿を書く、編集でこもる…という生活になるとタバコの量も増えるし、運動不足になる。そして体重もふえる。体調を悪くするのは当然なのだが、昨年の11月からの忙しさは30代、40代の頃並で、激烈だった。
その間に、MOVEの仲間がひとり他界した。そして、今年になって、親戚縁者の方が二人亡くなった。
さらに、宮台真司や尾木直樹、齋藤環の各氏と取り組んでいた「生きる力を育む教育シンポジウム」、これに連動してwebに立ち上げたポータルサイト「OUT」といった事業を支えてくれた恩ある方も他界した。
じつは、その恩ある方が当時の役職を降りられたことで、シンポジウムやウェブでの活動ができなくなったのだ。資金的な支援がえらなくなった。5年間、10回にわたりシンポは実施し、ウェブは2年続いて幕を閉じた。その企画、実施、司会、講演、パネリスト、そしてウェブの編集長をやらさせてもらった。
じつは、その恩ある方が当時の役職を降りられたことで、シンポジウムやウェブでの活動ができなくなったのだ。資金的な支援がえらなくなった。5年間、10回にわたりシンポは実施し、ウェブは2年続いて幕を閉じた。その企画、実施、司会、講演、パネリスト、そしてウェブの編集長をやらさせてもらった。
それが、じつは、いまのMOVEの活動の発端なのだ。大規模なことができないかわりに、できることはないか…そこからミニシンポMOVEを立ち上げ、各氏にも協力してもらった。
丁度同じころ、東映で監督をやるようになっていた。そして、映画、主として短編で、社会映画でも1時間程度のものだが、そこで、これまでシンポや映像作品の中で手がけてきたことをドラマにするようになった。それまでは対談番組やヒューマンドキュメントが主だったのだ。
現実の社会的活動と自分の仕事である映画とリンクさせる。それは、そのときから始まっていた。
震災から3年。映画制作よりも、主眼は福島になにができるか、福島から何を学ぶか…そして、福島を全国、世界へどうつなげられるか…だった。しかし、昨年の「誇り」から、やっと映画としてそれを提言することができるようになった。
震災から3年。映画制作よりも、主眼は福島になにができるか、福島から何を学ぶか…そして、福島を全国、世界へどうつなげられるか…だった。しかし、昨年の「誇り」から、やっと映画としてそれを提言することができるようになった。
それまでは、まだ被災地を題材にしたドラマ作品をつくることは、不遜だという思いが強かったからだ。それよりも現実的に地域に役立つことが先だと確信していた。
それが「誇り」がつくれたことで、ひとつ吹っ切れた。「誇り」を観た福島の人たちが作品を受け入れてくださったからだ。
今回の作品を国際映画祭に出品したのは、賞をとるためではない。その願いがまったくないとはいわない。だが、それ以上に、国際映画祭という場に、いまの福島を見せることが、大事なのだ。そこに福島があることが大事なのだ。
今回の作品を国際映画祭に出品したのは、賞をとるためではない。その願いがまったくないとはいわない。だが、それ以上に、国際映画祭という場に、いまの福島を見せることが、大事なのだ。そこに福島があることが大事なのだ。
それが、次の新しい情報発信の場をつくるきっかけになるからだ。
Smart City FUKUSHIMA MOVEの立ち上げのときも、私は英語版がつくりたいと考えたし、いまもそれを検討している。
Smart City FUKUSHIMA MOVEの立ち上げのときも、私は英語版がつくりたいと考えたし、いまもそれを検討している。
首都を相手にしない。都会をむかず、自立する。その有効な手段に、地域が直接、海外につながるという道がある。
胸や背中の痛みはまだ残っているが、そこまでは走らなくてはいけない。いや、走り続けていなくてはいけない。
それは単に福島だけのためのことではない。次の世代ための新しい時代の幕開けへの道をこの国につくるためだ。