秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

張り子の虎

忙しくなると、寂しくなる。そういう人は少なくないだろう。ただ仕事が忙しいというのではない。与えられた仕事ではなく、自ら創造し、取り組む、いわゆるプロジェクトのようなものだ。

それは、どんなに自分がやりたいことでも。たくさんの壁や困難があって、それでも、あきらめず取り組んでいることでも。それだけに、やること自体に使命感や責任感といったものがあっても。それをやり切らなければという信念や覚悟、決意があってもだ。

そして、そこまでするだけの理念や理論があってもそうだ。いや、理念や理論があるからこそ、一層、そうなのかもしれない。

人は、目に現れる現象でしか、物事を理解しない。目に現れているものの、背景にあるものまでには、なかなか目が届かない。あるいは、すぐに、それと理解はできない。

忙しい中で、労苦をいとわず取り組み、成果や感動や共感といったものを得られたとしても、なぜそうなのか、目の前に現れた表象には、じつは、どのような思いや願い、そして、その根拠となる理念や信念、理論があるのか、それが深く届かないだろうことへの虚しさが、人を寂しくさせる。

よく例に出すが、映画にせよ、舞台にせよ、そこに表されたものは、氷山の一角に過ぎない。わずか2時間半、あるいは1時間半、場合によって、30分という時間の中で、表すことのできるものは限りがある。

だが、その表された時間には、その背後に、海に漂う氷山のように、海面の下、人々の目に見えないところに、膨大な隠れた氷山がある。

いい映画、いい舞台、いい俳優、いい演出というのは、あるいは、すぐれた音楽、すぐれた音楽家、演奏者は、この隠れた膨大な氷山の世界をコツコツと積み上げ、摸索し、苦悩し、研鑽を積み、煩悶の末に海上に、その一角を示すのだ。譜面にするのだ。

もちろん、その氷山の下に隠れたものを感じさせる力がなくては、良質の作品と多くの人が感動し、共感するものは生み出せない。しかし、張り子の虎のように、見た目の姿形ばかりに頓着し、その姿形で、人々の目をたばかる技も、いまは巧みになっている。

いや、残念ながら、作品に限りらず、人のあり方や組織の見栄え、言葉や行動までもが、張り子のようになっている。なぜなら、それで謀れる人が増えているからだ。骨太の信念やそれを生み出す研鑽までに目の届かない人たちは、容易に張り子の虎の見栄えのよさに揺さぶられる。

虚像と虚飾…。ラ・マンチャの男にこんなセリフがある。

「真実は事実にあるのではない。事実の向こうにこそ、真実があるのだ」