秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

理性の外部化

人の記憶というのは、そもそも曖昧にできている。正確にいえば、意図して、脳が曖昧にしている。もっといえば、曖昧どころか、歪曲して記録するということもやる。

それがわかってるから、有史以来、人は理論を必要とした。理念や体系を求めた。
 
不確実性と不信に満ちた自分たちの気まぐれで、ご都合主義で、自己保全の我欲に満ちた脳がつくるでらためな記憶ではなく、利他と普遍性を求めて、理性を外部化したのだ。
 
宗教や哲学、文学とった人文科学から、数学や物理学、化学といった自然科学に至るまで、歪曲した脳の記憶からの解放がそれら学問の誕生の基本になっている。

そのために、言語を必要とし、数字や記号を必要とした。言語と数字が記号論では同一性を持つのは、そのためだ。
 
そして、それらは、人々の理論の外部化としてだけでなく、絵画や音楽といったアートとしても展開する。だから、絵画、音楽の基本には、記号がある。数字と言語が内在するのだ。

私がよく、戯曲は譜面だというのは、こうした根拠からいっている。
 
いい戯曲というのは、したがって、数字配列、記号配列に無理がない。かりに、一瞬、矛盾に満ちた配列におもえても、音楽がそうであるように、全曲を聴き終わると、その違和感が計算されていたものだということがわかる。

いい戯曲、いい脚本というのは、言葉を基本としながら、その言葉そのものに頼っていたない作品だ。言葉の配列が生み出す、リアリティに人々はある心地よさを抱く。
 
それがわかっていない人がつくるシナリオや戯曲は、言葉だけがつくる記憶の曖昧さ、身勝手さがわからない。わからないから、曖昧で、歪曲し、収拾のとれない本を書く。収拾のとれない現実を、また、あてにならない脳の記憶がつくる言葉で埋め合わせようとする。
 
これまでもだが、今回の安倍内閣の新内閣の陣容やそこでの首相コメントを聴いていると、私は、言葉だけに頼り、自分たちの脳がつくる当てにならない幻想を無理やりシナリオにして、国民に披露しているようにしか見えない。

過去の歴史認識や過去の出来事を含め、政治家に限らず、生活者にも、若い人たちにも、届かない、ご都合主義で固めた、理性を外部化できてない脳の言葉だけで語っている。
 
理性の外部化したもの、つまり、普遍性に通じる学習をまったくしていない人たちが身内やそれに迎合する蒙昧な人たちが、この国を動かしている。