秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

整理と片付け

人には、いろいろなものを整理しなければいけないとき、物事に片をつけなくてはいけないときというのがある。

あきらめという言葉は、後ろ向きの言葉のように思われているが、あきらめの中には、冷静な目や内省、自分をみつめる沈着さもある。そして、周囲の人々の真価を見抜く力も。それは、だから、決して後ろ向きとはいえない。

にぎやかな会話や盛り上がった時間の輪、あるいは忙しい時間の中にいると、そうしたことは逆にできない。なぜなら、にぎやかさや盛り上がり、忙しさというのは、冷めてはできないからだ。

皮肉なことに、楽しい時間というのは、人から整理しなければいけないこと、片づけなくてはいけないこと、自分や他人を冷静に見る目を曇らせる。

物を書く、物をつくる、なにかを創造するということは、その冷めた目を楽しい時間の中でも持ち続けられるかどうかだと私は思っている。そして、それは、楽しい時間を持てない人間の側から楽しい時間をみつめることだとも考えている。

思慮というのは、そうしたところに生まれるもので、それは同時に、品格やインテリジェンスといったものにもつながっていく。

人の死や病気が、その本人も、また周囲の人々にも、いろいろなことを考えさせるのは、そこに、楽しい時間とは違う、思慮の時間があるからだ。

そして、楽しい時間は、それだけでは、思慮、人間的な深みや豊かさを生み出すものではなく、じつは、死や病気、もっといえば、苦や悩み、自分をみつめる時間から距離を置くためにあるのだと気づく。

いま、その距離を置くために、多くの人が楽しい時間を求め続けている。それは人としてありがちなことなのかもしれない。だが、それは喧噪やにぎわいに紛れて、見るべきもの、向けるべき視線、みつめるべき自分への関心を薄くさせている。

このところ、NPOのことや仕事の関係で、連日、夜景を目にする。楽しい時間を過ごした人々のいる夜の街を歩いている。あきらめを知らない自分がいることを、そこでまた感じる。

だが、やはり、いろいろなものを整理し、物事に片を付けなくてはいけない、潮時が近いのは、感じている。それは世の中も、自分も。

今日、旧い知り合いの女性が亡くなった。深い付き合いをしてきたわけではない。ただ、彼女がどこかで潮時を感じているだろうなと、数年前久しぶりに会ったときに感じていた。死の知らせには、だから、驚かなかった。

人は人の知らないところで、静かに整理し、片づけをしている…。