秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

知性か、その逆か

Good Will Huntingという1998年に公開された映画がある。以前、このブログでも紹介したし、fbの会社ページに以前、名作映画をいくつか紹介した作品紹介の中にもある。
 
マッド・デーモンがハーバード大在学中に書いた脚本を親友のベン・アレッフが脚色して映画化に漕ぎつけた名作だ。

その映画の中で、高校も卒業していない、天才数学者の若者グッドウィル(マッド)が、ボストンのパブでハーバードの学生をやり込めるシーンがある。
 
学歴のない日雇い労働の仲間(ベン)が、ハーバードの女の子を口説くために、学生のふりをして、彼女を口説こうとする。それを見ていた他の男子学生が学歴のない仲間(ベン)を揶揄するように分け入ったのだ。
 
ハーバードの男子学生は、アメリカの近代経済史について無学な仲間(ベン)に問いを投げかけ、答えられないと、あたかも救いの手を差し伸べるように自説を語り始める。

すると、天才数学者の若者(マッド)は、その自説っぽく語っている言葉がすべて、すでにある経済学者、歴史学者のパクりに過ぎないことを、引用しているページまで指摘して、やり込める。

「おまえのような人間は50年後、自分が何者だったを知るのさ。自分で思考したことも、解決した命題、課題もなく、人の文章や理論をあたかも自分の考えのようにして、自分より無学な人たちにふれまわり、偽りに満ちた社会的地位と富を築くだけのくだらない人間だってことにな」

この世の中には、わかったようなことをいう人がどんどん増えている。歴史にせよ、経済にせよ、社会にせよ、文化にせよ、教育にせよ。

手軽にネットで情報が検索でき、手軽にマス情報から知識をえ、手軽にSNSで情報を共有できる。手軽に高級食材や高級ブランドが楽しめる。マスコミも、コミニュティ媒体も、こぞってそれを取りあげる。

 
あたかも、そうしたサマリーにふれていないと時代から取り残されるかのように。その中で、受け売りの知識を自分のことにように語る、浅薄な知識の軽薄な知識人が増大する。

それでいながら、自分たちが軽薄な存在であることには気づかない。軽薄な存在は、別にいると信じている。

軽薄さというウィルスは簡単に伝搬する。何の労もなく、二次情報、三次情報があれば、あたかも現実を学び、知ったような言葉を持つことができる。

自らの足をつかい、自ら体を運び、さまざまな人間にまみえ、自ら学び、自らの言葉で語り、自らの解答を出し、それをさらに、さまざまな声に照らし、鍛え、確信や信念としていく…という研鑽。
 
それはひとえに、普遍的な体系や価値と出会うための研鑽だ。

それが失われるのは簡単だ。知性と逆のことに、物や金や地位といった即物的で普遍的価値から遠いことを社会や生活の第一義とすればいいことだ。

社会的、世界的課題。難解な問題を棚上げして、経済の豊かさばかり言う奴は知性がない。

投票日まで、あと3日。選択はいつも同じ問いにある。知性か、その逆か。


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