秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

正義と信念

福島をやっていて、私が一番、福島に感謝していることがある。

自分の中に沸いてくる、いろいろな直情的な思い。それと出会い、それを切り替えざるえない現実とも伴走し、結果、自分の精神的未熟さとひとり相撲のようにぶつかり、だが、それを越えたとき、心のなにかが変わることの喜びと出会わせてもらっていることだ。

若い頃、芝居をやっていても、映像制作という仕事やプランニングという仕事を生業としていた頃も、そして、いまも、私の中には、人としてさびしい心の情動がある。

児童会・生徒会・執行部・部活…小中高と仲間を動かすポジションにいた。大学で劇団をつくり演出をやり、高校演劇の指導もやる。卒業してからも劇団を主宰し、映像の世界に入るとわずかな時間で制作室長という立場になった。

独立してからも、それは同じだった。

その間、自分の意志やプラン、思いを実現するための苦労。営業成果=作品の満足度というところで勝負する中での苦難はあったが、評価や成果が数字で出る分、自分のことを振りかえる必要はなかったのだ。

自分の不利な状況が生まれるとそれをだれかやなにかのせいにしたり、不都合な生活の現実にぶつかると、自分以外のなにかに原因をみつけたり、これぞやるべきことと思うと思い込みが深くなり、表現したいなにかに出会うとほかのことがみえなくなり…

もちろん。その中で落ち込むこともあれば、取材対象への思い入れなくして、できない仕事もある。そのために、あらん限りの心を砕くということはしてきた。

だが、自分の中にある、直情的な思い、こうあってしかるべきだろうという自らの正義を疑うことがほとんどなかったといっていい。

人は自らの正義と信念を誤謬する。

正義は人の心情によっていく通りもある。だが、信念というものに至るには、学習がいる。現実との出会い、直視がいる。信念が人を動かし、人を集合するのは、そこに現実から抽出され、現実によって鍛錬された理論や理念、普遍的ななにかに通じる体系があるからだ。

当然、私の中のそれは、依然、未熟で不完全なものだ。だからこそ、普遍的ななにかに通じるための現実とのぶつかり合いは続けていこうと思う。つまり、自分の正義の視野ではなく、常に信念といえるものと出会う努力をやめないということだ。

頭ではわかっているつもりになっていること、できているつもりでいること、それを福島が強く私に現実の行動や姿で教えようとしてくれている。人がだれかと未知へ協働する、共になにかに取り組むということは、それだけの価値がある。

いまのこの国の政治、あるいは、先進国家といわれる経済的安定の中にある国々…いや、大方の国々がわが国の正義に執拗に執着している。

確かに。それはひとつの正義かもしれない。民族、習慣、文化、伝統、宗教、言語…いろいろな相違が私たちの世界にはある。まるで、見えざるなにかが、人類に意図して与えた命題のように…

だが、それをも凌駕する普遍的な世界の良心ともいえる信念を、じつは人類は求めているのではないだろうか。

相手が銃を持てば、自分も銃を持つ。自分を守るためには銃をちらつかせる。そこにそれぞれの正義がある。だが、じつは、その前に、人類が考え直さなくてはいけないことがある。しなくてはいけないことがある。

人類に与えられた命題を生きることだ。命題を越えるために最初に必要な議論と対話を捨てないことだ。

それは幻想であり、現実はそんなに甘くないという人はいうだろう。だが、それは自分の正義だけに生き、人類の理想を持たない人だと私は思う。そこには、平和は生まれない。

有史以来、人がいまこうして世界に生きていられるのは、その理想を捨てて来なかったからだ。間違いや愚かな選択のあとも、それを修正してきたからだ。そして、わが正義だけでは、決して、ひとつになる一歩も踏み出せないという現実を学んできたからだ。

だが、それでも人は過ちをやる。だからこそ、過ちに過ちと声を上げることを拒んではいけない。過ちという声に、それが自分に意に添わない言葉だったとしても、とりあえず、聴くことだ。

そこからしか、自分の過ちに人は気づけない。