秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

別にいいじゃん

言葉が重さや深さを持たなくなってきた。

いまに始まったことではないが、言葉が心の表象であったり、人間の内面の深度や質量を持つのは、いまでは書き物の一部の世界でしかないのかもしれない。

言葉は言葉だけの世界、文字、文章、会話といった世界のものだと思っている人が多いだろう。あるいは、せいぜい、音の世界という理解なのではないかと思う。

だが、言葉を成立させている背景には、私たちの生活習慣、生活の所作やふるまい、もっといえば、社会規範や生活の決まり事といったことがある。

つまり、言葉と身体性とは切っても切り離せないものなのだ。舞台俳優や舞台演出をやればすぐにわかる。わからない人は演劇の世界には不向きだ。

私たちの生活からふるまいや所作、生活の姿勢といったものが失われるにつれて、言葉は、その拠り所となる身体性を失っていく。簡単にいえば、言葉に力がなくなり、言葉に人の心の詳細を読む力や理解する力といったものが喪失していく。

言葉の身体的根拠がなくなり、言葉そのものがやせていく。身体という圧倒的現実をなぞるような言葉や聞き手や会話の相手、聴衆にとどまる言葉にならなくなっていく。下手な俳優のセリフを聞いていれば、わかるだろう。

「愛する」という言葉がいまや容易に口にできない言葉になったように、確かな根拠を私たちは身体性、生活のあり方、他者との関係性と共に失っているからなのだ。

国会での討論の言葉が、どこか本質的ではないと感じさせ、与党の答弁にウソを感じ、野党の語り口に違和感を感じる…。言葉が言葉ではなく、言葉のゲーム、言語ゲームとしてのゲーマーのやりとりのように私たちに見えるためだ。

そして、巷でも、これに習って、言語ゲームの優位性を競うような議論や恫喝、非難、差別、侮蔑が平易で行われている。ゲームだから、そこでは何をいってもいいというようなことも起きる。言葉の陣取り合戦。だが、そこに、揺るがない言葉の力は少ない。

安保を採決ともいえない採決の仕方をしたあと、今度は経済で所得倍増計画のようなありえない話を始める…これも言語ゲームにしか、まともな人から見たら映らない。

戦争や紛争の認識においてもだが、もっと平たく、私たちは生活の些細な場においてさえ、決まりや姿勢、あるべきふるまいや態度、所作といったものをないがしろにして、別にいいじゃん…と、すべてを言語ゲームにすり替えていく。

その先、別にいいじゃんで、この国の人たちは、次の時代の幸せの定義をみつけていけるのだろうか。

ま、オレはいないので、別にいいじゃん。なのだが…