秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

すべっていた

先日、東京福島県人会の合同交流会で、青年たちの参加促進をテーマに、プレゼンターとして登壇させていただいた。

福島に限らない。私は、そう切り出した。

かつて盛況だった、高校同窓会、県人会、市町村の交流会といったものが、押しなべて、参加者の高齢化や減少に見舞われている。いまそこそこ人が集まっている場合でも、すぐに、あるとき、急激に、激減に見舞われるだろう。

高齢化少子化が進む現実があり、地域力が落ち、地域の空洞化、流動性が高まっているのだから、当然のことだ。そこで、このままではいけないといろいろ知恵をめぐらせるもの悪くはない。

しかし、このままではいけない、その理由はどこにあるのだろう。どうも、この基本の検証力が希薄なのではないかと私は思っている。

人が集まらない。若い世代が来ない。そういいながら、現実にやられていることは、中高年世代の過去の時間を懐かしむようなことや過去の郷土の記憶、過去の生活の残像、過去の流行の語り合いといったことしか見受けられない。

前にも書いたが、18歳や20歳そこいらで、東京及びその周辺で生活を始めていれば、いまのふるさとのことはほとんど知らないに等しい。知っていたとしても、若年のうちに知るふるさとなど、自分が暮らした生活圏内程度のことだ。帰省のわずかな時間はその狭い生活圏に戻るだけのことだ。

どこそこ出身者という都会の人間がじつは、自分の出身地のことをほとんど知らない。知った気でいる、わかった気になっているだけのことだ。そんな人々が振り返るふるさとや母校は、いまのふるさとでも、母校でもない。

郷土愛や幼少期青年期の回想、母校愛といったこととは別の視点がなければ、いまのような多様性と流動性が当たり前の時代に、取り残されていくだけのことだろう。かつてのように、単純にそうしたものに愛着や執着を持てる時代ではないのだ。

また、同時に、かつてのような愛着心や執着心で固まられると、流動性の中に生きる若い連中には息苦しい。集団や集まりにこだわりが深くなる分、残念ながら、人は引いていく。

このままではいけないのは、集まらない人たちの側ではなく、自分たちの側にある。その気づきがないから、あれこれ考えても、知恵が浮かばないだけのことなのだ。

地球規模でも連携や協働といったことが当たり前の時代に、狭い枠組みの中と過去の経験や知識の中で、問題の打破を考えても、道は拓けないと私は思う。

つまりは、すべっているのだ。すべっているのだが、それに気づけない。気づいたとしても、すべっているわけがわからない。

答えは簡単だ。郷愁や回顧ではなく、いま、そしてこれからのことが語れ、次に何かが誕生すると期待させることだ。それは何なのかという問いへ自分たちの視線の方向を変えることだ。

自分たちができなれば、自分たちがつくっている枠の外にいる人から知恵や力をもればいい。

言葉でそういいながら、それができていないのが、残念なことに、いまの私たちの社会、時代、そして、世界…。

当然ながら、私のプレゼンは、わずかな人には受けていたが、大方の人たちには、すべっていたw