秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

始めに答えありき

始めに答えありき。物事を己の思うままにしたいとき、人はこれをやる。

確かに、何事かを実現しよう。ある目標にたどり着こう。そうしたときに、到達したい目標点はある。そのためには、その目標という答えがあり、目標へ到達するための道筋も答えとしてある。

とても好意を寄せる異性がいて、どうしても彼女、もしくは彼と付き合いたい。あるいは、人からも羨ましがられるくらいステキなカップルになりたい…。そのためには、最初から諦めていてはなにも実現しない。まずは、二人が付き合っているそのイメージや交際の到達点が見えていなくてはいけない。

だが、果たして物事はそう単純で簡単なのだろうか。

彼もしくは彼女に、自分の気持ちを伝えるために、あれこれ言葉や行動を示しても、それがすべて受け入れられるわけではない。恋愛はひとりでやるのではない。相手の気持ち、心が動かなければ、なにも始まらない。

あるいは、仮に、自分の気持ちを受けて入れてくれて、付き合い始めても、他人なのだから、デートの待ち合わせ場所ひとつ、見たい映画ひとつ、食べたい食事ひとつ、行きたい場所ひとつで違いが生まれる。自分の好きなファッションや音楽、スポーツだって相手とは違うかもしれない。

つまりは、付き合うというのは、ただの始まりに過ぎない。付き合ってみたら、違いが大きすぎる、違いすぎるということでダメになることもあれば、その違いがあっても、やはり、私は、ぼくは、この人のことが好きと思えるかどうか、一緒にいたいかどうかを問われてくる。

つまり、始めに答えなどないのだ。答えがあるのは、自分の身勝手な妄想や幻想に過ぎない。始めの答えに到達するためには、いろいろな苦難をえて、そうか、自分のことではなく、相手のこと、周囲のことも計算に入れてこそ、実現できるものなのだ…と人は気づく。

大方、恋愛が長く続き、後悔しない別れ方ができるのは、そうした目覚めを持った恋愛と相場は決まっている。

国立競技場にせよ、エンブレムにせよ。まったく、国民の方を向かず、「自分たちだけの世界」で、まずは答えありきで始めてしまった。そもそも、オリンピック誘致からがそうだ。

国立競技場の問題では森元首相をはじめ、現政権中枢が大手ゼネコンをはじめ、これを受注している企業や団体となにか深い関係があるのではと取沙汰されている。

エンブレムにいたっては、オリンピック事業の広告から企画の大半を請け負う電通のお目こぼしで博報堂にグラフィックをはじめとするデザイン関係の受注をという配慮が働き、結果、審査委員がすべて博報堂出身者かその系譜にある人間という不透明が明るみになってきた。つまり、デキレースだったのではないかという指摘だ。

始めに答えありきどころではなく、始めからデキレースありき。

すべては国税や都税、国民の金だ。あの昭和の東京オリンピックでもそうだったが、首都整備事業で命を落とした多くは、他県、とりわけ福島県からの出稼ぎ者、農村の人間だった。

血税を利権のために惜しげもなく使い、地方、とりわけ被災地の現実や原発事故のいまを隠し、世界に何事もないかのように自国を誇れるオリンピックなど、まともな国民なら、だれも望んではいない。

始めに答えありきならば、沖縄や福島の課題こそ解決すべき国民的課題として、その答えを用意することだ。安保など、いますぐの国民的課題でないものに、湯水のように国家予算を使うくらいなら、あるべき課題にまず国民ための答えを出せ。

それしてこそ、すべての国民がひとつになって、世界に誇れるオリンピックになる。形や予算の高や見た目ではない。人々は、身の丈にあった、それでも熱い思いのあるオリンピックを望んでいる。