秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人新世のオリンピック

人には、見たいものしかみないという、心のメカニズムがある。

 

危機的状況に追い込まれるほど、この装置は巧みに作動する。現実からの回避や逃避行動をとることで、危機をないもののようにデフォルメしたり、透明化する、あるいは、代替えのできる何かへ意識を向けて、存在しないものにしてしまう。

 

大小の違いはあっても、ぼくらは往々にして、傷つくことへの恐怖から、道をふさがれることの焦燥から、孤立や変化への不安から、自己否定を逃れたいという欲求から、ごく自然にこうした心の所作をとっている。

 

人が変化を求めながら、変化が眼前に迫ると、過去の成功事例や慣例にこだわり、安全だと信じられている道を探ろうとするのもそれだ。

 

しかし、実は、その過去事例や慣例どおりにやっていれば、すべて安全で、うまくいくというのは神話なのを知っている。なぜか。すべてがいままで通りで問題がないのなら、いまそこにある危機は誕生していないはずだからだ。

だが、危機が大きければ大きいほど、パニックになればなるほど、装置の働きは強くなり、いつか見ていないのではなく、実際に危機はないのだというところまで、装置は加速し、「ない」が定着してしまう。この国の明治以後の戦争への歩みはすべてこの装置が働き、無学で無知な国民が率先して戦争を煽った。

コロナ禍における東京オリパラへの国、都、JOCの対応もこれに同じだ。いまは政治家そのものが無知で無学であるばかりでなく、虚栄と汚濁の固まりだから、おバカな国民に煽られなくても、やれてしまう。

科学的根拠も安全の保証もない、緩み切った強硬開催と開催における対策を見ればわかるだろう。彼ら及び、それを支持するオリパラ関係者、アスリート、国民は、見えていないのではなく、見ようとしていないのだ。見たいものしかみてない。

 

だから、中止の声にも無観客の声にも耳を貸さない。対策はじつに中途半端でいい加減になる。危機と向き合う意識そのものが欠落しているのだから、そうなって当然だが、じつは、このメカニズム。今回、もうひとつの破綻へ向かう姿を見事に映し出している。

 

オリンピックが商業主義に落ちたとIOCを批難する声もあるが、それは認識が浅い。

そもそもオリンピックは資本主義社会の成功を象徴し、これを賛美する世界イベントだ。商業主義はいまに始まったことではない。これは社会主義を標榜する中国を含めてだ。実体は資本主義経済の枠組にいる。

 

世界平和といいながら、紛争国や難民問題、人権問題、貧困国への国際的課題をスポーツの祭典という美名にカムフラージュし、さもスポーツだけが国際課題を乗り越える道かのように扇動する欺瞞性に満ちたものだ。裏では莫大な資金が湯水のように使われ、ある限られた人間たちや団体に流れ込む。

 

最貧国や経済弱者のサウスアースの人々には、十分な練習設備もなければ、アスリートを育てる充たされた資金もない。その格差を当然とする中で、持てる国がメダルの大半を獲得し、それに世界的企業が金を稼ぐためにサポートする。最貧国や経済弱者の国からメダルがでれば、それを美談として、これもコマーシャルに利用する。

だが、コロナ禍は医療における世界的格差を通じて、持てる国とそうではない国、持てる地域とそうではない地域、民族を可視化させたように、IOCの欺瞞を世界の人々にあからさまに映し出した。

 

それは、IOC及びそれにつながる各国委員会、競技団体がじつは、資本主義、拝金主義の象徴であり、すでに崩壊に向かっているこれまでの資本主義の限界を示しているからだ。

 

高額な資金を投入し、国の経済に大きな負担をかけるオリパラの国際社会における無効性、終わっている資本主義の幻想を必死に世界に発信しようとするものでしかないという現実だ。

国連のSDGsがすべて正しいとはいわないが、持続化可能な社会、世界のために取り組むべき資源や環境の問題とはまったく対極にあるのがオリパラだ。コロナ禍は、じつはその事実を現前化させた。

 

2020東京オリパラの問題は、じつは、人類がこれまで幸福の基準としてきた豊かさとその象徴であった資本主義の終焉をコロナ禍を通して、提示している。オリンピックといえば、すべてがまかり通った時代はこの東京で終わりを告げるだろう。

だが、そのために、東京は大きな犠牲を強いられることになる。

それを許したのは、政治にも、社会にも、世界の現実にも、そして、2030年に到達目標としているCO2削減にも到底現状では届かない、資本主義社会が破壊した地球の現実ににも気づかず、関心を寄せない、あなただ。