秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

すまじきものは宮仕え

すまじきものは宮仕えという言葉ある。

宮中に務めるのはなにかと決まり事やしきたりに縛られ、自由に仕事ができないので、できればやらないに越したことはない。

転じて、縛りの多い公的な職や会社勤めの大変さをたとえる表現になった。

確かに、貴人や社会的地位、名声、立場のある人に仕える、社会的に影響のある大きな組織にいるとなると、そこで当然とされている常識や道理、手順、段取り、決まり、しきたり、慣例といったものに縛られて、のびのび、自由闊達、臨機応変を通すことは難しい。

世間の常識や道理とは別のところにあることで、そうした枠組みや権威を守ろうとするからだ。

難しければ、気づいた人間が変えていけばいいのだけれど、そうしたシガラミがまとわりつく人や組織というものは、自浄作用や自己改革というのが大方できない。イノベーションとか横文字を使いながら、じつは変革を嫌い、常識のない常識に従う方が面倒がなくていいからだ。

人や組織から好感をもたれる異端児や異端者が出現しないと不可能といってもいい。それでも、ほんのわずかな変化を生むのが精いっぱいだ。なぜなら、やりすぎるとスポイルされるからだ。

結局、いろいろなことを先回りして、人や組織の世間の非常識を常識として、気働きをするうちに、それが喜びとなっていき、いつか異端が異端でもなくなり、世間の非常識を疑わなくなっていく。

過去20年以上の管理教育の徹底の成果なのか、いまはいろいろなところで、優秀な官僚や官僚予備軍が増えている。本来、未来を拓くべき政治家においても、ビジョンを自ら組み立て、慣例や慣習という非常識を越えることができない。

制度やシステム、つまり、これまでの決まり事を守ることや円滑に進めることが得意な人間はいても、明日への道を拓くための挑戦や冒険、そのためのシステム変更を思い切ってできるパイオニア、異端が登場しにくくなっている。

社会や組織の活力の素は、じつは、そうした異端にある。異端は、大方、変革の口火を切るか、変革がなしえたとき、用なしになる。あるいは、異端であるがゆえに、変革のあとの障害にもなる。

だが、それを覚悟しないと、異端は生まれない。異端が変革の口火を切ることもできない。

少しの冒険やわずかな挑戦をして、その火の粉を少し浴びただけで、あわてて手をひっこめる。そんな覚悟では変革はできないということだ。安全な場所にいて、傷つかない、差しさわりのない居場所を確保していては、世は変わらないということだ。

危うさの先に、未来はあり、変化がある。そろそろ、市民、庶民、国民がそれに気づかなくてはいけないときが来ている。だれかに支配されるのではなく、自らが選択し、声あげ、行動する。非常識を常識としないためにだ。

それも何かへの宮仕えのためではなく、自らのため、他者のため。人の為。