秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

責任

日清・日露の戦争に始まり、この国が戦争へと突き進む原動力となったものは、帝国主義者でもなければ、国粋主義者でも、保守反動でも、右翼でもない。

戦後になって、それまで徹底的に弾圧され、やっと社会に復帰できたが、まだ未熟な左翼と、かつて一億総玉砕と叫んでいた戦争支持者たちが一夜にして寝返って、すべての責任を戦前・戦間期の軍部独裁、独走にすべての非があるかのように、自らの責任逃れでわかりやすく、そこに集中させただけのことだ。

いうまでもない。戦争へと突き進むその原動力の柱としてあったのは民意だ。つまり、原動力は国民そのものだったのだ。

もちろん、治安維持法や国民総動員法といった法制の強制、すなわち、軍部の意図的な圧力や司直の弾圧があり、国民の意志が自由に表明できないという圧政があった。それに逆らうことは自らの生命、生活だけでなく、家族を路頭に迷わせ、危うくする危険があった。

侵略を当然とする帝国主義者。自国の軍備や資源、能力を数値化できなばかりか、国際情勢にも疎い、精神や根性論の無能な国粋主義者。軍の力に対抗できる理念や信念も覚悟もない保守反動の政治家たちに最大の責任がある。

が、しかし。そういう輩の好きにできる状況を許し、煽ったのは、また同時に、規制され、強制され、弾圧されている国民そのものでもあったのだ。

維新後の教育がそれを可能にしていた。よく例に出すが、ルソーの言葉にあるように、教育とはそもそも不遜なものなのだ。人をその時の治世者、制度、社会システムに適応するようにする。それが教育の根幹にある。

が、しかし。ここでも、それがあったにせよ。それを疑わず、異議を唱えず、従うことを美とする歪んだ意識が国民に共有されていたからだ。

この国が戦後70年、いまだに戦争責任の所在を明確にできないのは、じつは、このことが最も大きい。

国に殉ずる、国に従う、国に奉仕する…。それを第一とする歪な国家感は、どのような犠牲もやむなしという国民軽視、国民不在を生み、国民の安全や生命の尊厳までも傷つけ、いのちの犠牲を当然とした。国民の安全と生命を守るという言葉のもとに、危機に陥れた。

だが、その歪さを正義としたのは、全国のあらゆる産業、地域、団体にできた、○○報国会という団体であり、そこにいた歪な国家感を正義と信じる、思考しない人たち、国民だ。従うことを美として、従わない者を排除や無視という暴力で弾圧してきた村の大人たちだ。そして、それに無言で従い、見て見ぬふりをしてきた国民の大多数だ。

日本人は被害者ではない。加害者なのだ。それは海外においてだけでない。国内においても、日本人は日本人に対して、加害者なのだ。

国内において、とりわけだれに対してか。わからない人は、いまだ責任の所在に自覚のない人たちに違いない。

いうまでもない。若い、次世代を生きるべき、いのちに対してだ。