秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人は道徳的にはできていない

今日は、70年目の開戦記念日。
 
この国が日露戦争以来、敗北が見えている無謀な戦争に踏み出した日だ。今年は、東映がその時期をみこして、『山本五十六』を役所浩司主演で映画化した。
 
国際情勢への無知、民族意識への無理解…それが、あの戦争に踏み切らせた大きな要因。一部、良識ある人々もいるにはいたが、政治、軍部の無知と無理解を国民の無教養が後押しした。
 
あの戦争を軍部の暴走のように、「戦後民主主義」はいい続けているが、実は、それはマスコミや国民の責任逃れに過ぎない。当時、日本の世論は開戦一色だった。
 
そうした中で、あの戦争は起き、皇国史観が無謀な戦争を聖戦とした。その考えはいまでも多くの戦争の実態を検証したことのない、無知な日本人の中に脈々と受け継がれている。
 
ことわっておくが、あの当時の日本が、アジア主義を唱えたことをオレは否定していない。問題なのは、革命の父孫文支持者に象徴される、日本人の親中国派から生まれた統一アジア構想を大東亜共栄圏という軍部の海外侵略の口実に利用したことだ。
 
当時、枢軸国といわれたイタリア、ドイツ、日本の経済情勢は惨憺たるものだった。国民生活は疲弊し、明日の希望がなかった。その希望なき社会の不安と閉塞感が、戦争を容認するマインドを形勢する。
 
パレスチナ問題、中東問題でもよくいわれるように、根本問題は貧困なのだ。それは、いまやアフリカ諸国や中東における生活の貧困だけをいうのではない。希望なき社会という貧困だ。
 
北アフリカや中東と同じように、日本より早く成熟社会から低成長時代を迎えた先進諸国も希望なき社会という貧困に直面している。格差に対する頻発するデモはそれを象徴している。
 
人は、所詮、妬みと羨望で生きている。自分が人と比べて恵まれていない…となれば、恵まれていない状況に甘んじつつ、憎悪をたぎらせるか、富を寄越せと声を上げる。
 
それが人としていいことなのかかどうか、倫理的、道徳的にどうなのかは関係ない。自助努力や自己責任をいって、そうした大衆を切り捨てる前に、そうした社会をつくらないことが先なのだ。

人は人が思うほど、道徳的にはできていない。