秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

つくられたもの

マクドナルドの経営が傾いたのは商品力の弱さ、時代のニーズ、消費者の動向の変化についていけなかった。それだけが理由だろうか…。

マクドナルドが隆盛を極めていたころから私は、マクドナルドが受け入れられる理由が全くわからなかった。

じつは、30代の頃、マクドナルドの社内教育用のVPを制作したことがある。そのとき、徹底的に研究され、分析され、システム化されたマニュアルの存在に圧倒されたのを覚えている。マクドナルドの珠玉の財産だ。

そして、私が否定的に見ていたマクドナルド商法にも驚くべき研鑽が背後にあるのだと反省させられた。

だが、それでも、このマニュアルによってつくられる全国のどこでも、いつでも、同じ質、同じサービスというシステムは長く続かないという思いは断ち切れなかった。

マクドナルドでは、店員と雑談ができない。いや、マクドナルドに限ったことではない。ファーストフード業界を始め、効率性を追求する飲食分野では、その余裕がないし、マニュアルでそれは認められていない。認められていないのでその対応もできない。

利用者とのトラブルにおいても初期対応のマニュアルがあり、マネージャー、店長、本部へとそれぞれの階層における段階別の対応マニュアルができている。

問題なのは、どこでも、いつでも、同じ質、同じサービスを提供するために、その苦情対応マニュアルも、利用客の事情ではなく、マクドナルドの事情での対応マニュアルになっていたことだ。いわゆる均一性、公平性、平等性にこだわるあまり、個々の利用客のニーズは見てない。

笑顔も同じ笑顔、声のハリ、言葉もまったく同じ。私にはそれが「つくられたもの」にしか見えない。

そして、その「つくられたもの」は、個々の人間にゆだねると、不利不足が生じ、マクドナルドにとって都合が悪い状況を生みかねないという計算が透けて見えた。個々にゆだねられ、個々の利用者に対応すると効率を阻害すると考えられているからだ。

だが、これをマニュアル教育で徹底させることは途轍もなく優秀なことだ。

しかし、そこでは、どこでも、いつでも、同じ質、同じサービスが提供されるという安心感よりも、「つくられたもの」は、一体、なにを閉じ込め、封じ込め、抑えつけているか…という不安や異質さ、奇妙さを人々に当たる。私はそう感じていた。

人々の生活の質やそれぞれが求める生活欲求、生活の質(QOL)が多様になり、大量生産大量消費を背景とした均一性の安心は根本から揺らいでいる。

食の安全で躓いたとマクドナルドが考えているとしたら、それは問題の本質を見てない。大量生産大量消費とそれを成立させる「つくられたもの」による効率性や利便性、システムそのものが信頼や評価の根拠ではなくなっているのだ。

「つくられたもの」がもはや人々の安心や信頼の前提ではなくなっている。それだけ、人々は情報にあふれ、多様な意見や考え、嗜好の持てる情報社会、体験社会にいる。

ベルリンの壁の崩壊の原動力のひとつは衛星放送だった。いくら情報統制しようとしても西側情報はいつでも手にいれることができようになっていた。ジャスミン革命はITの普及とSNSの拡大だった。

「つくられたもの」。ありがちなマニュアル戦略。そこにあるお決まりの笑顔と言葉。それで無知な大衆がコントロールできる。そう考えていた治世者がことごとく、治世者の無知を大衆から突き付けられた。

その現実からいまの社会を見ると、同じ「つくられたもの」で、政治、経済、国際関係、外交、福祉のすべてを乗り切ろうとしているとしか思えなくなってくる。

沖縄にせよ、原発にせよ、福島にせよ、安保法制、国立競技場、70年談話、近隣諸国との関係、テロ対策…

すべてが「つくられたもの」対応マニュアル。その利用客、つまり、生活者である国民の多くの民意や考え、意志ではなく、治世者や権力を持つ者たちの事情のための対応マニュアルになっている。

いま多くの国民がこれらの対応マニュアルに異議と疑念を明らかにしている。何のための、だれのための、マニュアルなのか。自分たち国民の安全、安心のためというマニュアルの言葉と笑顔とはちぐはぐな、その透けて見える現実に気づき、マニュアルの影にある「つくられていない」真実を見ようとしている。

マニュアルの怖さと危うさを指摘しているのだ。