秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

サラエボの花

私が子供のころは、戦争の記憶や陰惨なその姿、極限まで追い詰められたときに人が狂気や憎悪、恐怖の中でどう変貌するか…それを日々の生活の中で親を含め、身近な大人たちから直接聞かされていた。

そうした話題に導く、戦争の残像と残証が日常のいたるところにあったこともある。

軍帽や軍服を着た傷痍軍人もいれば、空襲の跡が残る建造物も、街並みもあった。テレビドラマには、必ずだれかが太平洋戦争で亡くなったというくだりがあり、ドラマの登場人物の男性たちは、それを演じる男優本人たちと同じように、出征し、銃後や戦場の体験があった。

戦争未亡人と呼ばれる人の家が地域にあり、家々の仏壇やカモイの上には、戦争で亡くなった夫や息子、親族の遺影があった。

アルバムを開くと、日中戦争に出征する、だれかわらないおじさんや若い男性の出征写真、上海事変のときだろう、軍刀を抜いただれかの写真もあった。父が志願して出征したときの若い写真もアルバムににあった。

戦争というものがどういう姿をしているのか。当時の大人たちは折に触れ教えてくれた。そして、それを語らない人には、悲惨で言葉にできない体験があることを周囲の大人がそっと教えてくれた。多くはインパールなど無謀な作戦の激戦地といわれたところから九死に一生をえて、帰還できた人たちだった。

高校1年のとき、五木寛之の小説に夢中になった。

五木が満州引き揚げ者で、引き揚げの途中、母親がソ連兵にレイプされ、自殺したこともその時知った。あるとき、幼いころから可愛がってくれている、母と長い付き合いのおじさんが、私が五木を読んでいるというと、そうか…と少し喜んだような顔になり、じつは自分も引き揚げ者だったのだとそれまで知らなかったことを話始めた。

引き揚げ途中、ソ連兵たちに囲まれた。そして、ひとりのまだ中学生の女子を兵士たちがレイプした。ほかのソ連兵に銃口を向けられ、大人たちは成す術もなく固まっていた。同じ年くらいの少女がレイプされている…子どもだったそのおじさんは、がまんできず、人の輪の中から飛び出して、少女を助けようとした。

あのとき、そうしていたら、オレはここにいなかったと思うよ…。おじさんはそういった。

だれかは覚えていない。飛び出そうとしたそのとき、だれか大人の手が強い力で自分の腕をつかまえた。あれは神仏の手だったのかもしれない…あの手のおかげでオレは生き延びれたんだ…酷い現実が戦争なのだと心に深く刻んで…

サラエボの花」という映画がある。もう旧ユーゴの崩壊後あった、ボスニア紛争のことを知っている世代も少ないだろう。1992年から1995年の停戦までつづいた、この紛争の中で、セルビア勢力の兵士たちがクロアチア人やムスリム人の女性を意図してレイプする「民族浄化運動」があった。

これまで同じ地域に住む人間同士が民族と宗教の対立で自治権を奪い合い、殺し合い、レイプによってそれぞれの民族の血を根絶させるという紛争だ。妊娠が確認されるまで、テント村から出されず、レイプされ続ける…

サラエボの花」は、そこで生まれた少女を通して、戦争が生みだす狂気を描き、ベルリン映画祭最優秀の金熊賞を受賞した。

女性への性暴力による蹂躙…戦争の非人道性は、ただ無残な死や身体をもぎ取られるといったことだけではない。高齢者、女性、子ども、そして、心優しい者たちが狂信した身勝手な正義のもとに蹂躙される。

狂信者たちが、自らの狂信に気づくときは、自らの狂信の暴力を越える、狂信的暴力によってだ。この国が原爆という狂気を見たように。だが、狂信者たちは、自らの狂信によって犠牲となったいのちや尊厳のひとつひとつを見ようとはしない。

見よう、知ろうとしていないから、狂信者になれるのだ。狂信者たちのツケは、サラエボの花たちがその傷と積年の思いとして、抱え続けなくてはいけない。