秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

憲法はどうやって生まれたのか

日本国憲法は占領下で占領軍に押し付けられたものだ。だから、日本人自らが勝ち取り、発案したものではない…。

多くの改憲論者があたかも真実のように大声でそういう。そういう人たちは、憲法を語る前にもっと勉強していただきたい。

戦後、新憲法草案を作成するため、当時の内閣でも草案作成が検討された。GHQもバカではない。自分たちアメリカ人だけで新憲法草案をつくる気などなかった。それでは日本国憲法にならないし、占領軍の憲法では国民的合意が得られないことを知っていたからだ。

だが、最初に提出された当時の内閣の草案は明治憲法の焼き直し。当然、突き返した。

突き返された政府は、これはやばいぞと考え、同時に、GHQの民生局でも日本人に民主主義に基づく新憲法草案がつくれるのかという疑問が湧き、独自の草案を検討し始めた。

そこに、敗戦の年の10月につくられていた「憲法研究会」が脚光を浴びることになった。政府もGHQもその研究に注目したのだ。

戦前、戦間期、軍部独裁から弾圧されていた保守系自由主義の政治家や憲法学者有識者が政府も体面が保たれ、GHQとしても押し付けではないと国民に言い切れる憲法草案を検討していたからだ。

そのとき研究会をまとめたのが、福島県相馬市の出身で京都帝大を出たあと、左翼学者とみなされてパージされていた鈴木安蔵だった。

投獄後、鈴木の面倒をみてくれた師は、大正デモクラシー時代、民本主義(民主主義)を唱えた東京帝大教授の吉野作造。その影響で、自分の出身地相馬の自由民権運動家たちや福島の自由民権運動から誕生した民定憲法草案(農民や商人など市民が発案した憲法)をよく学んでいた。

吉野作造は、明治の民権運動が弾圧された後、主として福島や宮城、埼玉秩父に埋もれていた民定憲法を発掘し、同時にフランス憲法アメリ憲法と比較研究し、民本主義を提唱している。しかも、発掘された民定憲法草案は、東京帝大図書館に寄贈していた。

つまり、鈴木安蔵には、自由民権運動から続く国民主権の近代憲法の理念の理解と学習があったのだ。そして、日本人の中にある独裁的で専制的治世への反骨と民主主義の理念がそこにあったのだ。

そこに、研究会外部ながら、戦前、弾圧され、罷免された元首相の幣原喜重郎や後に岸信介を破り、病気ため、わずか2か月だが、自民党総裁となった東洋経済新報社社主の石橋湛山のような大正デモクラシーを生きた思想家も参画した。

提出された鈴木安蔵たち憲法研究会の草案は、GHQが独自に検討していた草案とじつに近接していた。だが、岸信介に象徴される戦前回帰の国政を考える国粋主義の保守反動派の抵抗も強かった。

最終的なとりまとめと決定権は、占領軍であるGHQにある。幣原を初め、戦前、戦中、岸たちに弾圧されてきた政治家、思想家たちは、それを逆手にとって、戦争放棄を含む、類まれな自主憲法の成立を成功させた。それを改憲論者は、押し付け憲法だと無知をいっている。

岸信介はこれからは民主主義の時代と演壇で幾度も言葉にしたが、じつは、民主主義ではなく、無知な大衆に代わって、エリートである国会議員とその代表である首相がすべてを決するという考えを強固に持ち続けた人だ。60年安保改定の強行採決はその象徴だった。

だが、この憲法は占領軍に押し付けられたものだから、大衆の声はひとつも生かされない民主主義に反していると言い切る人は、しかも、国会議員の長である首相の決断によって新憲法をつくると言い張る人は、長州の人だ。

いまの政治と符合する。

鈴木安蔵を始め、憲法研究会が大衆の声、民の声として着目したのは、薩長を中心とした明治政府の憲法に対して、反旗をひるがえした民権運動の福島を中心しとした東北の声だ。

よく考えてもらいたい。詭弁を弄しているのは、いずれかのか。国民本位の新しい道を拓こうとしたのはだれなのか。欧米の軍事による武力主義ではない、自国の自国らしい道を勇気をもって歩もうと決意したのはどちらなのか。それを阻止し、民主主義を否定してきたのはだれかのか。

憲法発布の日、映像に残る国民の熱狂は、そのとき、その答えを知っていた。そして、じつは、私が福島にこだわる理由にこれがある。