秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

家族の崩壊

一見、複雑に思える事柄や齟齬や対立のある事象を考えるとき、もっとも的確な対処は、情感や情緒、心情を排することだ。つまり、感情的なものを避けてしまうことだ。

物事には、物事それぞれに、事象には事象に、本質がある。それを理論や原理という基本となる基準と尺度で検討してみれば、感情的な思い入れや思い込みとは別の、あるべき姿が出現する。

この世にある多くの課題、手におえないと思える問題は、大方、人それぞれの情感や情緒が物事を見えなくさせ、一見、複雑にしてるだけだ。

不登校やひきこもりの子どもを持った母親や両親を取材し続けていた時期がある。
彼女、彼らの中にあるのは、まず、このまま子どもが学校へ行けなくなったらどうしよう…がある。

学校へ行けないばかりか、卒業でもできず、社会のレールからはずれてしまったら、取り返しのつかないことになる…がある。

そして、その多くは、子どもの学校へ行けない理由、あるいはいかない理由や行けない気持ち、要因となっているものを理解しようするのではなく、母親として、親として、自分の子育てが周囲、世間に失格だと烙印されることへの怖れだ。

あるいは、社会的な存在である父親は、子どものことで、自分の社会的評価が貶められることを怖れる。

いわく、「社会に出たらもっとつらいことがあるんだ。こんなことくらいで、家に逃げ込んでどうする!」。世間には敵や試練がいっぱいなのだから、負けないような精神や体力、力を身につけろとなる。

母親も父親も、仮想の敵や仮想の世間をつくりだし、そこと闘っていくために、強くあれと教えるのだ。それは一見、子どものこれからのことを考えて上の配慮のように見える。

だが、じつは、そこにあるのは、自分が世間や周囲からいい親、いい夫婦、そして、いい家族、もっといえば、うらやしがられる家族であろうとする、自分たちの都合でしかない。

したがって、子どもの不登校やひきこもりが長引くにつれて、親自身がパニックになり、子どもにより強圧的になっていく。これが初期から中期の姿だ。親の意志に従わせることが目的であり、子どもの将来や未来、子ども自身の側に立って問題を分析しているわけでもなんでもない。

そこにあるのは感情でしかない。それが、ますます、問題を複雑にさせ、問題の本質を見失わせる。

安倍政権が強引に強行採決しようとしている安保法制。理論も原理からいっても間尺にあってないが、これを擁護している人間の理屈を聞いているとほぼすべてが情緒や感情論のレベルだ。中国の問題やテロの問題を持ち出し、立憲の本質や国民主権の原理は当面の危機に対して無視できるという近代国家ではありえない非常識を感情論ですり替えている。

親たちの見栄と体裁、体面、面子と自分たちの思い込みのご都合主義の平和を、世界の基準のごとき、押し付けをする。

不登校、ひきこもりと追い詰められた子どもたちは、最後には、そうした親の実像を見抜き、家族は、崩壊していく。

崩壊させる犯人は、問題を感情で複雑にさせる、当然、おバカな
親、政権の側だ。