秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

桶が笑う

「桶が笑う」という言葉がある。
社会の価値が多様化し、基軸となるものが不確かになると、社会の枠組みそのものを支えてる倫理や規範、社会秩序、それにも基づく法制度そのものを「たいしたことないじゃないか…」という、なんとはない感情が人々に広がっていく。
 
これまで通用していた常識や法を遵守しようという意識が希薄になり、社会を形づくるために、人々が共通の認識として共有されていたものが失われ、あちこちで身勝手な主張や正義が林立するようになるのだ。
 
家庭、地域、社会、国のあらゆる生活レベルにそれが浸透すると、政治制度や法制度に対する不信、税負担への義務意識の欠落、公的意識の喪失、地域や組織への帰属意識の崩壊、家族であることの意味性の喪失などが次々に生まれてくる。

この国は、過去20年の間、その道をじわじわと真綿で首を絞められるように進んできた。その社会状況をオレは、公式HP(http://www.hideshima.co.jp)の今月の評論OUTで、数年前から指摘し続けている。
 
じわじわと、といういのは、こうした「社会の枠組なんてたいしたことない…」という意識は、だれかが明確にそうした社会へ誘導しようという意図によって蔓延するのではなく、人々のなんとはない不安感の増大によって、生みだされていくからだ。
 
政治家も官僚も、財界人も、教育者も、地域の行政関係者も、企業人も、親も、それぞれが自分の仕事をまっとうにこなしている…と思っている。問題があれば、なんとかしなければと考え、問題への解決策や対策を模索する。

しかし、出現した事象へ対応しながら、そこで使う処方箋が効果を発揮しない。出現した問題をたどるうちに、それに関連する他の不具合や支障と出くわし、解決をさまたげる複雑に入り組んだシステム回路を前に立ち往生する…ということが起きる。
そして、人々は、出現した事象に対応するだけでは問題の根本的な解決にはならないことを知り、かつ、ならば、とりあえず、この事象への対処療法のみを優先させるしかないと考える。結果、複雑に入り組んだシステムの回路そのものは手つかずのままであり、また、対処療法にしか効果のない処方箋はそのまま延命される。

システム全体を見直そう、システムの問題点を抜本的に改革しようという気がないから、そこに有効な処方箋が開発されることはない。
 
そのようにして、ずるずると日本は凋落の道を進んできたのだ。
 
風呂桶にせよ、たらい桶によせ、洗面用の桶にせよ。タガが緩むと、じわじわと水が漏れだし、やがて、タガが緩み、桶としての役割を果たさなくなる。それと似たような社会状況がこれまで続いていた。

桶であれば、そこに接ぎ木をあてがい、あるいは、腐った板をかえ、タガを新しいものに変えることで、新たに再生させることができる。しかし、社会システムという膨大な構造になるとそれができない。なぜなら、社会システムの基盤そのものを変えることを躊躇してしまうから。
 
新しい基盤を開発せず、既存のシステム基盤しかないということもある。基盤を変えたとき、これまで出くわしたことのない、未知の不具合が発生し、システムそのものが崩壊してまうのではないかという怖れもある。
 
それもいま社会がどうなっているのか、どういう問題があり、それが社会全体にどう波及しているかを知らないからだ。つまり、社会システム全体がどう動いているかが見えないからなのだ。
 
いま、被災地支援、そして復興、原発問題といったことに、人々が政権が翻弄され、確かな対応をしていないと不満をいう。しかし、実は、それが現政権であろうが、なかろうが、おそらく、同じ問題が生まれている。いうまでもない、いままで述べてきたように、社会システムの基盤そのものを取り換えなければいけなかったにもかからず、それに過去20年、手を付けずにきたからだ。
 
いま野党である、自公その他の政党の狡さがそこにある。桶が笑うという社会状況をつくりながら、そこに有効な手立てを打てず、結果、今回のような事案が生まれたときに機能するシステムを構築していなかった。また、民主党政権も、それに果敢に挑戦しようとはしなかった。
 
そして、国民もまた、すべてを政治に丸投げし、あちこちで身勝手な主張と正義をいうばかりで、自らの責任を引き受けようとはしてこなかったのだ。沖縄の基地問題をみるだけでそれは明確である。
 
いま、オレたちは、桶を直すように、地道に、痛んだ板を削り、接ぎ木をし、あるいは、腐った板を新しい板にとりかえ、緩んだタガをしっかりと締め直す。そんな単純だが、確かな仕事を目指さなければいけないときを迎えている。