秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

二つの想像力

想像力があるかないか。それが未来をつくれるか、つくれないかの分かれ目になる。

だが、想像力でも未来をつくる想像力と未来をみえなくする想像力の二つがある。

有史以来、人類の成長発展には、生物学的な意味も含め、よりよく生きたいという欲求が生む想像力が根底にある。

だがそれは、自分たちがよりよく生きるために、そうではないだれかたちを排除し、隷従させ、抹消する歴史でもあった。よりよく生きたいという想像力の姿形が異なるがゆえに、その基準と価値が違うために、自分たちのそれを押し通す。

それが、未来をみえなくさせ、未来をつくれなくさせてきた。

要は、自分たちの想像を絶対とし、それと異なるものを受け入れない想像力は、決して未来をつくる力にはならない。つくられる未来は、自分たちの未来であって、他者や多くのだれかのための未来ではない。

それは、未来とも、未来をつくるともいわない。逆に、未来を見失わせ、未来を信じられなくさせる。

理論ではなく、生理的で心情的な「自分たちだけの」こだわりがその想像力の根幹にあるからだ。だから、反発や反論、異論が生まれると、頑なに、耳を閉ざし、力で自分たちの未来をつくろうと向きになる。

場合によって、その背景に、利権や権益、既得権やインサイダー取引がある。富や体裁、見栄、虚栄を満たすための計算がある。

力ないものほど、より大きな力に頼り、力ないものほど、自らの力への評価にこだわる。手の付けられない頑なさは、そこに強いコンプレックスがあるからだ。

あの恥ずかしい思いはしたくない。また失敗したら笑われる…。そこにあるのは、幾度も失敗してきた自分や自分たちへのコンプレックスだ。

それが力への依存を高め、広く共有されない想像力を無理繰り、共有される価値のあるもののごとく、装飾する。

いまの政治の姿。いまの治世者たちの姿。新国立競技場にせよ、安保法制にせよ、それをいいなりに実現すれば、絶対の力と富が約束されているのだろう。

そこに国民の声も、被災地の現状も、人々の暮らしも、そして、未来も、見えていない。