秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

親子の不条理

親には感謝してくてはいけないと、人はわかっている。
 
この世に生んでくれたことへの感謝。育ててくれたことへの感謝。ほとんど子どもには、自覚も記憶もない頃、親、とりわけ母親から受けた愛情は、言葉でただ愛とだけは表現できない、理屈を越えたものだ。
 
親は親で、子どもを授かり、子どもを育て、成長する喜びを子どもからもらう。親として、子どもに一方的に愛情をそそいでいるのではなく、親も子から愛をもらっている。いや、正確にいえば、愛とは何かを教えられている。
 
つまりは、子も親も、理屈でいう愛を越えたもので結びついている。だから、いろいろと心配もし、不安になり、それがもとで諍いもするし、喧嘩もする。
 
愛を越えた関係だから、「どうしてわかってくれないの!」と、もっとわかって当然だろうと思う。家を出たい、親の顔などみたくないといった拒絶も生まれる。で、いながら、愛を越えた関係であるがゆえに、完全に拒絶しきれない。
 
そこに虐待があったり、ひきこもりが生まれたり、悲しいことに親子で命をやりとりするということが起きる。
 
いまのように、家庭が地域から孤立し、子育てが母子密着の中で進み、親のストレスが高い社会では、否応なく、愛を越えた関係が、通常の状態より濃密なる。
 
風通しのよくない家は、暑さもこもれば、食べ物も腐る。それは人間の感情も同じ。
 
親への感謝を忘れてはいけない。子どもを大事にしなくてはいけない。それがわかっているから、自分たちの心のあり方がいけないのだと、諍いながら、実は親子がわかっている。わかっているから、また、そうした関係しか生きられない自分が辛くなる。
 
親子、夫婦、男女の深い関係…。人はエロス的関係が深いほど、この葛藤の中に生きなければならないようにできている。
 
つまりは、親への感謝も、子どもへの思いも、わかっているようで、親にも子にも実は、よくわかっていない。わかっていないから葛藤が起きる。
 
その葛藤の中でしか、愛を越えた関係が何のかを確かめることができない。昨日、お彼岸法要の手配をしながら、ふと思った。
 
ギリシャ悲劇のテーマはすべて、家族の不条理を通して、人間の不条理を描いている。お彼岸を前に、改めて、オレ自身、親でありながら、子である葛藤をきちんと生きているのだろうかと、反省する。
 
感謝のない自分がそこにいた。