秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人は人が思うほど変化に強くない

多くの人は意識していないだろう。この5月には、実は重大事案と呼べる事件が起きている。
 
昨日は、神戸連続児童殺傷事件、俗に「酒鬼薔薇事件」が起きた日。まだ、記憶に新しい、秋葉原無差別殺傷事件もこの5月に起きている。平成12年に起きた「西鉄バスジャック事件」も5月だった。ほとんど記憶にないだろうが、8年ほど前には、ネコや犬など小動物を惨殺する事件が全国で連続して起きた。これも5月。
 
こうした動機不明の事件は、もちろん5月に限ったことではない。しかし、その名前を聴けば、ああ…とだれもが気づくような事件は、年度変わりしてしばらくした、5月や6月に多い。ちなみに「池田小事件」「土浦連続殺傷事件」は6月だった。
 
人は人が思うほどに、環境の変化に強くはない。特に流動性社会に慣れていない日本人にはその傾向が強い。5月病という言葉はいまも生きている。
 
4月、新入学や新入社員となって、新しい生活を迎える。しかし、新しい環境への適応に失敗し、煩悶とする。が、家族を含め、期待や夢を抱いてくれている身近な人たちへの思いを知るほどにそれを言葉にできない。あるいは、せっかく手に入れた新生活から脱落すると、人生の負け組、落伍者になるという不安から、落ちこぼれそうな自分を必死で保とうとする。
 
しかし、やがて、自分ひとりで抱えきれなくなり、一日ですんでいた欠勤や欠席が次第に増え、みるみる社会から撤退していく。それにたいして、世間が放つ言葉は、怠け者、意気地なし、根性なし、やっかいもの…といったマイナスの評価だ。
 
「オレだって、好き好んで、そうしてるわけじゃない…」。不登校やひきこもり、あるいは会社勤めを続けられなくなったうつ病経験者などに取材すると、ほぼすべての人がそれに似た答えを返してくる。

社会へ復帰しなくては…その思いは、マイナスの言葉を投げかける世間の人々には想像できないほど強い。人と同じにできなくては…。周囲に迷惑をかけている…。その思いは深いのだ。だが、適応力の弱さからそうできないで苦しんでいる人間に追い詰めるように鞭を打ち続けると、やがて、社会へ復帰しなくては…と思えた感情が、世間への憎悪、社会への強い敵対心に変わっていく。
 
事実、人の輪に入れない、人の流れについていけない…という人間に、人は冷酷だ。始末が悪いのは、その冷酷さ、場合によっては残酷さにさえ、気づけないで、社会の枠の中からやんわり排除する。美しい顔をした悪意…それを見抜いたとき、こんな社会なんて、こんな奴らのせいで…といった暴力的感情が生まれて不思議はない。
 
そして、それがまったく自分とは無関係の人間へ向けられる。動機不明といわれるが、実は、動機は明確なのだ。世間や社会というものには、特定の顔がない。不特定の人々の集合。だから、不特定の何のかかわりもない人々が対象にされる。

しかし、ひきもりや社会から撤退している人間は、基本社会とかかわり合おうとはほとんどしない。問題なのは、そうした傾向を持ちつつ、社会参加しているのだ…と必死でプライドを保つために、悶々としながら、無表情なまま社会の一員であろうとしている人間たちだ。おそらく、その数は犯罪や事件、事故といった形で現れる何百倍もいる。

オレがいま、ひとつ心配しているのは、被災地とその周辺の子どもたちだ。手篤く、ケアされている子どももいるだろうが、そうではない子どもたちも少なくはない。まして、家や親、家族を眼の前で失った子どもも少なくない。彼らがこれから思春期、青年期を迎えていく過程で、被災したがゆえの差別や排除を受けたり、被災して多くの人々に支えられてきたからこそ、いい子でなくてはならない、社会に恩返しできる人間にならなくてはならない…といった理不尽な縛りの中で、そうできない自分と出くわし、自己否定に走ってしまうことだ。
 
それは心の傷を別の代償行為で埋めようという人間をつくってしまう危険がある。
 
震災後まもなく、避難所になっている体育館にいったとき、子どもたちがカメラに集まってきた。その中で、ひとりの男の子が、オレのからだを蹴ったり、カメラにさわって撮影を邪魔した。もしかしたら…と区長さんに聞くと、やはり、家族を亡くしていた。だれか大人にかまってもらいたいのだ。それが、軽い暴力になる。しかし、それがそのまま放置されると、暴力によって心の傷を埋められる…と錯覚するようになる。
 
人は人が思うほど、変化に強くない。それをよく理解せよ…キリストの愛も、仏教の慈悲も、イスラムの許しも、それを知っているからこそ、生まれている。