秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

身勝手な脳

文科省が重い腰をあげて、やっと現場から、比較的妥当と思える報告件数があがってきた。
 
だが、これもまだ、現実にあるいじめの実態からはまだ遠い。実際、小中高生の自死件数のうち、その大半が依然、原因不明とされたままだ。
 
ここにも、この国のいまの制度や体制の欠陥、教育に関わる組織の硬直した保身体質が出ている。
 
学校長や学校管理者、教師の査定評価基準にまず、問題がある。いじめがあるという事実をあからさまにすることによって、それらの評価が下がる。これは学校の現場だけでなく、教育委員会というものの評価にもつながる。
 
当然、それは、これはいじめでは…と疑う目を曇らせる。教育にもっとも大事な気づきを生まない。最初から、それはないという目でしか、見ていないからだ。
 
もうひとつは、信じられない話だろうが、いじめ問題などというのは、マスコミやまともな教育関係者がいうように、広がっているはずはないという先入観。この思い込みは、いじめがあっても負けない人間になれといった、かえって子どもを追いつめる教育にもつながっている。
 
場合によって、学校ばかりでなく、家庭においてもそれは行われ、子どもの逃げ場をなくさせている。あるいは、学校と家庭が責任の押し付けをして、子どもたちがいまの時代、どういう状況の中で学校生活を送っているか、それが家庭の時間をも浸食している現実を知ろうとしない。
 
10年ほど前、うちの会社が初めて、いじめ問題を扱う作品をつくったとき、驚くことに、その制作や販売にかかわる大人たち自身が、それほどにいじめが拡大しているはずはない…といった甘い考えを持っていたのだ。

これは、不登校、ひきこもりといった現象にも同じ反応で、ある大手出版社の局長と寿司店で飲んでいて、不登校の話をしていると、そんなことはないと一蹴された。
 
「いやいや。それは認識不足ですよ。いま、クラスに最低ひとりは不登校の子どもがいるんです」。そういっても、ガンとして否定する。私は、仕方なく、その寿司屋の一番若い青年に、聞いた。「どうだい? 高校時代とか中学時代、そうじゃなかったかい?」
 
すると、そのまだ青年とも呼びきれない店員は、「そのとおりですよ。うちのクラスもそうでしたし、他のクラスでも一人は確実にいましたよ」。
 
その言葉で、やっとその方は、少し私の話を聞く気になった。

当時と比べれば、はるかに、人々の認識は変わった。それは、共に仕事をしていた尾木直樹斎藤環、大日向雅美といった、教育と心にかかわる専門家のたゆまぬ啓蒙もあったし、制度がつくる人の傾向を社会システム論から解き明かす宮台真司などの啓発もあったからだ。

しかし、まだ、依然として、現実の子どもの置かれた実状を把握できているとは言いがたい。

人の脳は、じつに身勝手だ。自分は悪意はなく、逆に、よきことをしていると思っていても、そのじつ、自分や自分が所属している組織にとって、都合のいいことしかやろう、それしか見ようともしない。
 
刷り込まれた偏見やバイアスのかかった一方的な視点を自ら疑うことができない。それができるためには、ある訓練が必要なのだ。自分自身の行動様式や思考パターンを疑うという訓練。
 
意識して、自らのいままでと、自らがいるこの現実がどこか歪んではいないかを善悪や正義の物差しではなく、見つめ直すことだ。

教育のすべては、他者をみることではない。他者を通じて、己をみつめること。自己の対象化。それしか、身勝手な脳から自分を解き放つことはできない。