秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自らに問う

既存の価値や体系に異議を唱える。自分たちの意志表明を理想と信念をもって訴える。

そうした行動や発言をする人たちを多くの人が生理的に受け付けなかったり、否定的だったり、あるいは毛嫌いする。そして、社会にある問題や矛盾、課題から撤退し、そのために不利益や不利不足にある人々を視野からカットする。

確かに。自分たちの権利主張ばかりする人、自己中から社会や他人の言動を非難する人、理論や道理もなく、やみくもに罵詈雑言を浴びせる人…あるいは暴力に訴える人…いろいろな意志表明の形があり、それが人々を権利主張や異議申し立てから遠ざける。

声高に主張することは大人げない、みっとみない、身勝手なことだといった風潮が村社会にあり、それは企業社会でも、地域社会においても依然色濃くあることだ。事なかれと先日もいった、しゃんしゃんしゃん。それが社会を維持する基本にある。

この国では、1960年代後半から70年代中盤にかけて、政治闘争が吹き荒れた。そのときの記憶がどこかであんなものは政治でも運動でも、闘争でもないという否定をいまも作り続けている。確かに。

私もすべてでないが、それには基本的には同意見だ。現実に、当時、高校生から大学生だったその時期、私は、沖縄返還などの運動にもかかわりつつ、サヨクでも、ウヨクでもなく、どうしたら、大衆に、同輩たちに、現実にある政治の問題やそれをゆがめているものの本質を理解してもらえるだろうか…ということに心を砕いていた。

よく誤解されるが、当時から、私は偏狭なサヨクも狭窄視野のウヨクも認めていない。いずれも世界の広がりと自由さがない。偏狭な正義が社会を変えるどころか、悪しき方向へ導くように、名ばかりの自由は逆に人々を苦しめる。

だが、意志の表明とすべての人のよりよく生きたいという権利は、守らなくてはならない。どのような立場、どのような人であれ、すべてにあまねく与えられ、守られなくてはいけないことだ。

それを侵害する人、制度やシステム、それを生む組織、団体に対しては、普遍的な基準に照らして、誤りであると伝え、理解させなくてはいけない。普遍的というのは、人類が有史以来、多くの過ちの中で、試行錯誤し、やっとたどりついたひとつの基準だ。いわば、それは理想かもしれない。

しかし、それを理想としたのは、人類が自らの過ちを知り、少しでも普遍的な理想に近い社会、国、世界を築かなくてはと考えたからだ。対立や紛争、排除や暴力では何一つ解決できず、憎しみの連鎖と消えることない傷を、語り継がれる傷を残すことになるからだ。そこに、あれはこうだった、あれはこちらの言い分とは違うという反論は、ほぼ意味をなさない。

過ちを過ちと認めることから、初めて、人々が進むべき理想の未来がみえてくる。戦争の危険を冒すよりも、平和のための危険を冒す。競争や排他、対立の論理ではなく、恐怖とその裏返しの武装や暴力ではなく、等しくだれもがよりよく生きたいという基本に返り、だが、決して、等しく、そうならない現実をどう変えていくか、どう向き合っていくのかを問い続けなくてはいけないのだ。

自らに問うために、社会に問うのだ。

意志表明とはそうした質のものでなければ、人の心を動かさない。それも歴史が教えている。若い世代の反戦の声を、あれこれ揶揄する人やどこかの政党やサヨクに動かされているのだろうと嘲笑う人がいる。やっと若い世代が声をあげたのかと上から目線でほめる人がいる。

俺たちだけのことじゃねぇだろ、あんたも当事者だろ。自らに問えよ。そんな若いやつの声が自分の声のように聞こえてくるのは、私だけだろうか。