秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

死ぬ覚悟のない人はなんとでもいえる

社会を知るまなざしのあり方。それはだれかに教えれらて学ぶものではない。あるいは、だれかが教えてくれるものでもない。
 
確かに、多くは親や親族の持つまなざしのあり方の影響を受け、かつ、周囲にいる大人や先輩、同輩への同調圧力の中で育つ。
 
だが、そのまなざしが果たして、多くの人々に共有され、かつ多くの人々に支持されるものであるかの検証、いわゆる対象化の作業は、そこでは、だれも教えてくれないし、だれからも学べない。

なぜなら、与えれたまなざしのあり方を否定も、評価もしてくれるものがそこにないからだ。また、そもそも、そのまなざしの基準がどこに依拠しているのかも、ただ受け入れただけのまなざしの中では、不明だ。
 
なんとなく、親が、周囲が、仲間がそうだから…といった程度のものでしかなく、あれこれ理屈や理由をつけても、狭窄の域はでられない。

大事なのは、自分たちの基準ではない。世界の基準だ。自分たちの言い分ではない。世界の言い分だ。

それを世界がまちがっていると反発すのは、ただの無学、無知。ましてや、暴言やヘイトスピーチでやり返すというのは、厚顔無恥

人は普遍的な価値や基準をもとめて、有史以来営々と学び、研鑽し、知恵を身に着けてきた。それはあるとき宗教であり、またあるときは哲学であり、文学であり、またあるときは科学だった。

自己主張のためではなく、どこに人の真実があり、普遍的な基準となるものがあるのか。あるとすれば、それはどういうもので、どういう形や姿で人々に共有されるうるのか…

それが人類の英知として、いまに至っている。当然、そこには実験の失敗もあり、過ちもあり、恣意的な思惑や打算もあった。

もちろん、その答えはまだ出ていない。だが、狭窄した偏狭な自分の理屈や言い分で世界が回らないことも、地球が立ちいかないことも、人は知っている。

いまこの世界で起きていることの多くに、知っていながら、それを変えよう、止めようという意志と決意が働いていないのは、それを変え、止めると困る力が働いているからだ。

だが、大事なのは、それぞれの言い分や私利私欲からの言い訳や主張ではない。
 
まなざしをそのために、犠牲にされてきたいのちやいま犠牲にされている人々。満たされた生活にない人々、困窮と貧困で不安と恐怖にある人々に向ければ、地球市民として、どこにそのまなざしを向け、その現実を変えるために、どのような取り組みやそれを支えるどのような基準が必要かはわかる。

今日。敗戦記念日。またぞろ、いろいろな身勝手な主張や言い分、狭窄して、世界を知らない無知と無学が平然とその厚顔無恥をさらしている。

普遍的な理想とそれへの挑戦を忘れたとき、いつでも尊いいのちが奪われる。それを忘れた国の、心のこもらない慰霊の言葉がいい歳した大人たちに飛びかっている。死ぬ覚悟のない人はなんとでもいえる。