秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あの教師

高校時代に影響を受けた英語教師にいわれたことがある。個人的にではない。クラス全員に夏休み前の終業式のあとだった。

 
沖縄返還闘争が終わったあとの夏のことだった。米軍の沖縄への核の持ち込み疑惑がまだ引きずられたままのときだった。

「戦争のはじまりは、決して、最初っから、その姿を現すのではない。戦争だけでなく、社会が過った道へ歩み出すのは、ある日、突然にそうなるのではない。
 
だから、その芽が出たときに、すぐに摘み取る努力をし続けなくてはいけないのです。摘み取るという行動を怠けてはいけないのです。それが民主主義を守るということです。育てるということです。
 
そうすることで、やっと人の権利や平和は守られる。だから、社会へ目を向けてください。それを決して、忘れないでください」
 
そこまでいって、その教師は、先生口調から先輩口調に変わって続けた。
 
「ついては、明日から夏休みになるが…。死ぬなよ。

さっと死ぬのなら、まだしも、さっと死ねないと家族にも迷惑をかける。だったら、死なないように、この夏を過ごすことだ。いいな。

いややけんね、オレは。次の学期にだれかがいなくなっとうとは。頼むばい」

生徒たちは全員、教師の最後の言葉にじんときた。そして、戦争といのちの話がなぜか自然に結びついた…

最後の言葉がなかったら、多くの生徒に最初の大事な話は心に残らなかったかもしれない。だが、生徒たちは、その教師のちょっと突き放したような生徒への愛情にあふれた言葉と一緒に、大事な話もきちんと心にしまった。

 
終了後、「あいつ。やっぱ、いい教師だよな…」と、男子生徒たちがつぶやくと、「決まっとうやない。いままで、わからんかったと? あんたたち?」と女子生徒たちが男子を小馬鹿にしたように軽口をいった。

だれも、彼を偏向教師と思わなかった。大事なことを伝えてくれてると感謝した。そして、私は、その言葉をいまも忘れていない。

 
浪人しているとき、大学の内申書をその教師の家まで取りに行ったことがある。くたびれた市営住宅のアパートで、家の中は貧相だった。それまでいったことのある、教師の家とは雲泥の差だった。

贅沢なものはなにひとつしてなく、室内の壁紙やふすまもところどころ破れ、はがれ、その手当もしていなかった。

福岡の基地反対闘争をずっとやっていて、収入のほとんどはそうした活動費に消えていたのかもしれない。その教師らしいなと思った。

私は、中学の2年生くらいまでは、コテコテの保守反動だった。教師のいうことは絶対だと信じていたし、サヨクとかいう連中はダダをこねる、わがままな連中だと軽蔑していた。
 
だが、中学の3年頃から、おかしいな…、まちがってるだろ…という問題に、学校の中でも、生活の中でも出くわした。そして、高校になると、明らかにおかしいと確信するようになった。
 
私は、自分がサヨクとは思っていない。ある場面では、ウヨクのレッテルを貼られることもある。私には、サヨクもウヨクもどうでもいい。問題は、人のいのちと人々の平和がどう守られ、次の時代を生きる人たちが、いまを生きる高齢者や生活者が、希望や夢や理想を信じられる社会であってほしいだけだ。
 
そのためには、あるときはサヨクのようなふるまいもする、あるときはウヨクのようなふるまいもする。
 
だが、私が信じるものは、ヘタなサヨクやアホなウヨクより、よほどまともだと確信している。
 
いつでも、そのために死ねる決意があるからだ。そのために生活を犠牲にする覚悟はとうにあるし、やっているからだ。それも、あの教師が教えてくれた。
 
なにかを進めるなら、そのくらいの覚悟と矜持は、率先垂範、持て!