秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

苦しみと喜び

社会貢献や社会事業に取り組むのは生活に余裕のある人。よくそうした表層的な言葉を聞く。

仕事や生活に追われていては、そんな時間も金も使えない。確かに。

だが、寄付やカンパといった類のものではなく、自らの体を使い、時間を使い、金を使っている人たちは、みな生活にゆとりのある人たちだろうか。

いや。違う。社会貢献事業や社会事業に取り組む多くの人が生活にゆとりなどありはしない。だから、ある時期はそれがやれても、意志や決意のない人、深い思いや願いのない人は継続できない。

にもかかわらず、継続し、持続する人は、生活のゆとりや余裕を度返ししてやっている。もちろん、継続し、持続するためには、いろいろな知恵がいる。しかし、人並みの暮らしや贅沢を求めなければ、継続するためのいろいろな手立ては生まれるものだ。

信念があれば、それはできる。マザーテレサを例に挙げるまでもなく、近代以降、社会的課題や社会的弱者といわれる人々のために、身を投じてきた人々は、おしなべて、信念によって、継続や持続困難な課題を乗り越えている。

そこには、その活動によって、自らの暮らしを楽にしよう。人並みの暮らしや贅沢をしようという思いはない。

なぜか。それは、人が苦しいだろうという状況がその人たちにとっては、決して苦しいものではなく、喜びだからだ。それを喜びとできる品格と素養があるからだ。

喜びを感じられない人。喜びより先に、自分の生活の苦しさや困難さが先にある人は、決して人々が喜び、人と人が支え合うことの感動は感じられないだろう。

それはどこかにビジネスとしての計算があり、どこかに打算があるからだ。計算や打算があることが、駆け引きを生み出し、その駆け引きが無駄な労力や時間を心に使わせ、求めていた打算が返って遠のき、人を疲れさせる。そこに、使命はあったとしても喜びはない。

人は、それがしっかりした生活の場を持つ人であればあるほど、社会貢献や社会事業にかかわる人たちの本音を見透かす。そして、見透かしても否定したり、拒絶したりはしない。だが、見透かされた瞬間、見透かされた人がやろうとしている社会貢献や社会事業までもが値踏みされるようになる。

結果的に、いろいろな計算、打算を含めてやろうとするそれらがうまくいかないことになる。

今日、ツアーの募集と参加に協力いただいた団体や個人にお礼とあいさつに伺ってきた。そこで教えられたのも、そのことだった。

なにが人の幸せなのか。なにが人の喜びなのか。他人からみて、苦しいと思えることが、じつは、途轍もなく、ありがたいことであったり、よくみつめれば、喜びといえることであったりする。

なにがあっても、腐らない、くじけない、逃げない。その基本にあるのは、じつは、そんなちょっとしたとらえ方の変化、見つめ方ひとつなのかもしれない。

苦しさや困難に溜息することがあっても、それがあれば、それに気づけば、いまの時間を喜びにかえられる。