秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ブラックホール

この国では、この数年、左派、左翼や右派、右翼、あるいはリベラル保守といった言葉が飛び交っている。

いまどき、そのような簡単な仕分けとレッテル貼りが通用している国や社会というのは、いかに民度が低いからを自らさらしているようなものだ。ことわっておくが、アメリカでリベラルというと保守そのものを指す。決して穏健派を意味しない。マイケル・サンデルようなリベラリズム批判があるのはそのためだ。

その程度の仕分け方しかできない人間が政治やマスコミ、論壇といったところにいて、浅薄な知識と無教養に恥じることがないというのは、本当に国民は不幸というしかない。

イデオロギーやきっちりした論評でそれをやるのならまだしも、生理や心情といった感覚、自らの貧しい学識でしか物が見えない、捉えられない。インテリジェンスのない身勝手な意見が堂々と世間に垂れ流されている。

どこそこの大学を出たとか、どこそこの企業にいたとか、どこそこの政党や企業の役員であるとか、高学歴や有名企業、官僚といった肩書があっても、インテリジェンスのない人はない。

簡単にいえば、世間の常識からもはずれている。だが、それは、世間にもある非常識が、表に出る出ないの違いだけでしない。

庶民の暮らしの中で、表向き、差別はいけない、人をキャリアや肩書きで判断してはいけない、身障者、障害や病気を持つ人、人種民族、性別、宗教によって不利益を与えるようなことがあってはいけない…うんぬんのきれい事はあっても…

現実に、それは素知らぬ顔して、心のうちにある人は決して少なくない。社会的であるためにそう装い、いい人、問題のない人であるために、言葉を封印してきた、表情にペルソナをつけているだけの人はじつは少なくはないのだ。

問題なのは、社会常識や社会的であるために、これまで抑止が利いていたものが、社会の枠組みやそれを支える基本的な倫理や道徳がゆるゆるになって、政治家に限らず、あちこちで酒のネタに、仲間うちで当たり前のように、常識を飛ばしていることだ。

その表象として、いまあれこれ意見が噴出している文化芸術懇話会の問題はある。

本質的で、根幹にある、このブラックホールを自らがしっかり覗き込み、それがいかに醜く、恥ずかしいものであるかを自覚できない限り、ゆるゆるとした社会のゆるゆるとした暴力は続くだろう。

どのような自分にも、それがある。そう覚悟するところに、本当に心の奥のブラックホールと対峙できる道が拓ける。それができれば、人は学ぶのだ。

いまどき、それはないだろう…。そうなれば、愚かしい言葉や愚かしき仕分けはしなくなる。