秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

尺度と基準

人は勝ち負けや成功か不成功か、得か損か、あるいは、名誉か不名誉かといったことで生き方の尺度を決めがちだ。
 
確かに、負けるより勝った方がいいに決まっている。損するより、得をした方がうれしい。不名誉であるより、人から誉められ、たたえられた方が気分がいい。
 
だが、いずれかに自分がいるか、あるかという尺度と、その基準となるものは同じではない。
 
なにをして勝ち負けというのか、なにをもって成功、不成功なのか、なにをえることで得というのか、あるいは、なににおいて、名誉であるのか…という、そもそもの基準だ。
 
もっといえば、勝つとはどういうことなのか、成功するとは何なのか、得であるということはなにを意味するのか、名誉とは何をしてそういうのか…という問いだ。
 
私たちの社会は、この基準をずっと問うてこなかった。
 
仮に問うたとしても、経済的に豊かであることを最優先とする中で、問い続けることをやめた。問い続けることを面倒と思い、問われることを否定した。そして、問いを持つ人を余計ものとして数から外してきた。
 
極端にいえば、そうやってつくられたのが戦後69年のこの国の歩みだ。もっといえば、明治以後のこの国の未熟な近代の歴史だ。
 
問いを除外することで忘れられてきたもの、置き去りにされてきたもの、失われてきたもの、そして、捨てられてきたものが、この国にはたくさんある。また、骨抜きにされたり、形ばかりになった残骸がある。
 
あるいは、歪曲され、矮小化(わいしょうか)され、形骸化されたものにあふれている。
 
問題なのは、多くの人がどこかでそれに気づきながら、それを変えることは困難だとあきらめたり、自分のことではないと逃避したり、または、眼をつぶり続けてきたことだ。
 
それもすべて、どこに多くの人の幸せの基準があり、かつ、それは時代とともに変化し、多様化することを学ぼうとしてこなかったらだ。
 
こうしたことをいうと悲観的過ぎると思う人もいるだろうが、決してそうではない。
 
だからこそ、若い人やいま社会の中心にいる人には、道を拓き、立ち向かう現実があり、つなぐべき未来がある。そして、そうしたマインドを形にしようとする人たちもいる。
 
ただ、だから、そうした人たちには伝えたい。尺度と基準は違うのだと。基準をどこに置くかを誤れば、そもそもの物差しは役に立たない。測定の仕方そのものが狂っているからだ。
 
いま世界的な課題を克服する人材の育成のために、以前にも紹介したEducational for Sustainable Development(持続可能な開発のための教育)が世界的に注目されている。
 
そこに書かれている世界的な課題、格差、無縁社会やエネルギー問題、若年世代の生活苦等々…。それらをこれまでの基準ではない視点でとらえ、新しい尺度で分析できる人材の育成の急務を呼び掛けている。ユニセフを中心とした、国連の事業だ。
 
それは簡単いえば、基準を変えようという呼びかけなのだ。基準を変えてみて、発展をとらえ直す。それをしなくては、一国の生活だけではなく、地球全体の生活が立ちいかない現実が見えているからだ。

大仰な言い方をすれば、宇宙のこと、地球のこと、いまを生き、これからを生きる人類のことを考えれば、その掲げた目標や未来のために必要なことは、まず、自分の生活や生き方の基準から変えていくことしかない。
 
あるいは、そうした基準を持つ人から学ぶことしかない。
 
それによって、自分自身、そして自分の家庭、そして地域、そして社会を変えていくしかない。
 
人の学びに完成も終わりもない。年齢や立場、生活のあり方にかかわず、どのように日々の時間が困難でも、学びをやめないという姿勢がいまほど求められているときはないかもしれない。
 
私の学びがどれだけ地域や社会、世界に貢献できるかはわからない。だが、基準を変え、新しい尺度はいつでも、どこでも、だれでも学べる。
 
だから、私は福島から学び、そしてまた、福島にそれを期待している。そして、それを微力でも東京、そしてさらに他の地域へと広げたい。その意志を持つ若い人や働き盛りの人、女性、子ども、高齢な方々と共有したい。

人類の心の傷はその誕生からある。それを回復できるのは人類だけなのだ。