秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

出会い

あのとき、あの出会いをもっと生かせていたら…。そう後悔することはあまりない。

そのときそのとき、私は私なりの思いで、私のやり方でそれを生かそうとはしているからだ。

だが、ときには、その私なりの思い、私のやり方が相手にとって不愉快であったり、相手の自分なりの思い、自分なりのやり方と違い過ぎて、出会いを生かせないことは決して少なくないだろう。

しかし、それは後悔や反省の種とならない。人はあまねく人々に心地よい出会いを築くことなどできはしない。また、あまねく人々に心地よく思われるために、自分の主義主張、信念を投げ出し、自らの誇りと矜持を汚すことはできない。そう考えているからだ。

決して、私が正しいのでも、私なりの思いややり方が優れているといっているのではない。人には、どうしても譲れないなにか、守り抜かなくてはいけない琴線というものがある。なくてはいけないと私自身が思っているからだ。

それがかみ合わなければ、私からではなくとも、相手からその出会いを生かす道はつくられないだろう。それは、縁がなかっただけのことだ。そして、その縁がなかったことで、なにか学ぶべきこと、知るべきこと、そして、出会うべきまた違う縁があったのだと私は思っている。

人は常に、選択と覚悟を問われる。そのとき、どのような結果があろうと、どのような試練と遭遇しようと、その選択と覚悟に責任があるのは自分自身であり、その後を引き受けるのは自分だ。

だとしたら、自分が守るべきものへのこだわりは、堅持して生きた方が後悔はない。

公民権や市民権、自由や権利。人権。
それはつねに、出会いの選択を問われる。そして、自らの権利を守るためには、後悔のない選択を常に、そのとき、そのとき、自ら行わなくてはいけない。人まかせてして、だれかにゆだねて、当てにして、得られる権利などひとつもない。

ひとつの選択から逃げても、選択は常に追ってくる。

私がこれまでの人生で、あの選択、あの出会いを…とふと思い出すのは、せいぜい二つのことだ。

そのひとつは、いま述べた、後悔しないための選択をする生き方をしたいという言葉に共感してくれた、ある著名な匠の方だった。

なにかあったら、いつでも遠慮なく連絡してくれ…。そういわれて、私は自分ごとでその方を当てにしたことは一度もない。そういう出会いの生かし方はしたくなかった。だから、後悔もない。

ただ、無礼な年下を受け止め、私に気骨をみてくれた数少ない方だった。ご冥福をお祈りします。